悪意の包容力(終)
海摩はまるで浮いているようだった。いや、海摩と言えるのだろうか。口からは蒸気のようなモノを発し、面前の巨大な口と対峙している。
『――鮫島海摩!! 悪霊に憑かれて困っているっ、助けてください!!』
ちゃみは、海摩が事務所に来た時、言っていた事を思い出した。
「えっ、あれマジ……?」
舌がまたもや海摩を捉えようと吐き出された。舌の動きは飛び掛かる大蛇のように疾い。しかし、その舌を蹴り上げるモノがいた――海摩だ。
蹴り脚は海摩の頭上より高く、そして舌はそれに合わせ天井近くまで飛び上がった。
着地。海摩はそのまま舌の根元に一瞬で近寄り、正拳を叩き込む。一度ではない、何度も何度も、返り血が玄関口を赤く染めた。
「あっ、あっがっぎゃあああああ~~~~!!」
絹を裂くような悲鳴。巨大な口と思われるモノは、突風に煽られた看板のように倒れた――いや、倒れるというより、剥がれたに近い。それは薄っぺらな肉の毛布のように、そのまま玄関向こうの欄干にぶら下がった。
まみえたマトモな向こう側の世界、アパートの廊下の粗末な蛍光灯、住宅街の薄明り、遠い電灯。ちゃみは逃げ出したかった、が。
「ふ~っ、ふ~っ、フッフッおっおっおっおっ……」
獣のように呼吸し、えずく海摩のようなモノ。ソレは目を血走らせ、カメレオンのように目を動かして次の被害者を探す。彼女は、既に見ていた。自分が――彼に近づいた結果、殴り殺される未来を。
前門には悪霊に憑かれた男、後門には泣き叫ぶ鈴木と巨大な目。どちらを選ぶことも出来ずにいたちゃみに、
「――あっ、終わった。……うおっ、キショ! 何だこのカーペットみてぇな口!! ほらちゃみ先輩っ! 今のうちに逃げっぜ! ほらっ何ボーっとしてんだよ!?」
差し出された血まみれの手。そこには死の未来は視えなかった。逡巡――そして、その手を握り返した。
「――もう、離してもらっていい?」
アパートから少し離れ、ちゃみは海摩に切り出す。彼は「あっすいません」と言って手の力を緩める。
「ホントだった……アンタ、悪霊に憑かれてんの」
「えっ、あ~……そうっすよ。あーやって追い込まれると出てくるんです」
ちゃみは彼から距離を取り、日傘で自分の顔を隠した。
「……君に、殺される未来が見えた」
海摩は「あっ」と自分の血まみれの手を見て、思わず背に回して隠した。
「でも、今回は助かった……かも。アタシ1人じゃ今回は死んでた……かも。あと、血は気にしない、見慣れてるから」
たどたどしい感謝だった。
「――次も、よろしく」
そして海摩に背を向け、彼女は歩き出す。その彼女に手を伸ばし、声を掛けようとした時、
「――っ!? ちゃみ先輩! アレ見てアレ!!」
海摩が大声を出し、ちゃみは面倒そうに髪を直しながら振り返る。彼の指し示す先、そこには、
「――見ないで。早く事務所に戻るわよ」
そこには、鈴木がいた。彼はアパートの二階の通用口に立っていた。
彼は、見ていた。2人を。夜の闇の中でも良く見えた。電灯に照らされた彼の目も口も、顔の穴という穴が未だに暗い虚空としてぽっかりと開いたままで、その何もない穴で2人をじっと見つめているのが。
「――なるほど、なるほど。大変ご苦労されましたネ。調査・報告ともにお疲れさまデス。わたくし然るべき場所に連絡するのでお帰りくださイ」
「所長、あと……あの、鈴木さん、包丁隠し持ってた。あーいう”物理的に危ない”場所はやめてほしい」
「うそっ!?」
「ホント。クローゼット調べてたら、アタシたち首チョンパされてたよ」
マジか~と驚く海摩。ちゃみは荷物をまとめ、事務所の玄関に手を掛けたまま話を続ける。
「ソレも含めてのこのお仕事デスからネ~。2人とも生きて帰ってきてくれて、わたくし、感激デス!!」
嘘っぽい大仰な言い方に、ちゃみは中指を立てた。
「――でも鈴木さん、彼、大丈夫かな?」
その言葉に、ちゃみは眉をひそめた。
「彼? 彼女でしょ?」
「えっ、うそ。顔が完全に男だったけど……」
「声が女だった! こんなのと組んでたとか――」
騒ぎながら2人は出て行く。その光景を頬杖を突いて見送る所長。彼は喧騒が遠くなってから、席をくるりと回して夜の街を見下ろす。
(鈴木拓海――彼には付き合っている彼女がいた。名前は佐山みのり。2人は仲が良く、前のアパートでもよく2人で出歩いていると近所の住人への聞き取りで分かっている)
彼の手には、鈴木の詳しいプロフィールが書かれている書類があった。
(しかし、今のアパートの引っ越してから、”2人同時に出歩いている姿”を誰も見なくなった。しかし、2人が仲睦まじくしている生活音を、アパートの住人は聴いている。そして、今しがたのちゃみ君と海摩君の言い合い、ちゃみ君は女性だと考え、海摩君は男性と思い込んだ)
所長はトントンとこめかみを叩く。
(医学的に女性は進化の過程で赤子の異常を早期発見し、コミュニティと円滑に生活するために『聴覚優位』となる進化をし、言語能力を発達させた。それに対し、男性は狩りを効率的に行うために獲物を探すための進化、『視覚優位』となりました。そして――)
眼下、日傘を射すちゃみを見て所長は口を開く、
「――2人は、同時に出歩くことはなくなったが、同じアパートから鈴木拓海、佐山みのりの両名が個人ごとに出入りしていることが分かっていマス。2人は存在しているが、2人は同時に存在していナイ。そして、彼らを襲ったという怪異――」
(――巨人。毛布のように薄い。わたくしが思うに、それはきっと――風呂敷のように、部屋を包んでいたのでは? 海摩君の話では剥がれた、と言っていたが、それは只の一端だけ。事実、その時もベランダの窓を顔の目の辺りが覗き込んでいたとちゃみ君が言っていた。手や足が見えなかった――ということは、顔面だけであの部屋を包んでいた。つまり、包んでいた正体は)
「――いや、包まれていたのは誰でショウ? いやァ~、解決のために電話電話! わたくしの解決する力はありませんカラネ~~!!」
そう言うと、所長はスマホを取り出し、電話を掛け始める。同時――窓に顔が張り付いた。
「……?」
ビル風で飛んできたポスターだった。美容品の効果を謳うポスターであり、笑う女性の顔が大きくプリントされていた。その顔は数秒、バタバタと暴れるように窓に張り付いていたと思うと、すぐにまた突風で飛んで行った。風に煽られ、まるで自分の意思で飛んでいくかのようだった。
「――はぁ、怖かった。あの『侵霊相談事務所』って何の役にも立たないね」
「大丈夫? ひどい目にあったね。だってさぁ、包み込むって言ったのはアナタだもん。そのアナタが包まれるなんて、私、耐えられない」
「ボクもだよ。だから相談したのにね。酷いよね、逃げちゃったよ」
暗がりで男女の声が聞こえる。声の先、向かい合う男女がいた――ただし、男と思われる影に身体は無かった。女性が彼の頭を掲げているように見える。
「怖かった。また私を包んで……」
「分かった」
女性は彼の頭を頭上に掲げ、そのまま――自分に被せた。
「「あぁ、気持ちいい……」」
男とも女とも取れない、いや、どちらの声も重なっているように聞こえる。
「ちょっと、身体も包んでよっ」
「あっ、いけないいけない。気持ち良くて忘れちゃった」
そう言うと、彼女は”彼の身体だったモノ”に寄り添う。そして、彼を”着る”ようにして彼の身体の中に入っていく。まるで蝉の羽化の逆戻しのようだった。
「「あぁ、一つになれた……」」
「嬉しい……」
「私も……」
四本の腕が絡み合い、一つの身体を抱きしめる。
「ずっとこうしてたい……」
「うん、そうしよう……」
彼らのいる暗いクローゼット、それを見つめる目。窓に張り付いた巨大な目がいつまでもギョロギョロと動き続ける。それはまるで――自分の身体を探すように。2人の秘め事の最中、眼球は血走り、涙を流しながら探し続けていた。
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