7 双子でも、心は違う
今日のところの解剖実習を終えた初斗は、気分が悪くなってキャンパス内の緑地広場に座っていた。
木陰は風が涼しくて、青空が映えていて、ようやく鼻についたにおいが薄らいだ気がした。
献体は、血が出ないとはいっても、かつては生きていた人。
精神科医になるために通らなければならない道だとわかっていても、鳥肌が立つのをどうにもできなかった。
同じチームの学生も、何人か真っ青になっていた。
きっと平也なら、平気な顔をして切るのだろう。
自販機で買った紅茶に口をつける。
遺体を見て怖い、と思う、その気持ちはどこからくるものなのか考えた。
何が怖いのか、なぜ、鳥肌が立つのか。
「難しい顔をしているな、初田君」
「なんですか白兎センパイ」
白兎凜がクックと喉の奥で笑いながら、缶コーヒーを差し出してきた。
大学生になって二年目、初斗が唯一まともに名前を記憶している生徒だ。
同級生は名前を記憶するほど親しくない。
初斗がコーヒー嫌いだと知っていて、なおコーヒーを押しつけてくるところが理解できない。
「いりません」
「なんだ。せっかく先輩が後輩の苦労をねぎらおうと思って買ってきたのに」
「頼んでません。自分で飲んでください」
三年生ということは、白兎も実習を経験しているということ。
進級できているのだから、レポートの類いもきちんとこなしたはずだ。
「君がそんな風になるとは予想外だった。きっと平気なのだろうと思っていたからな」
「………………兄がそうだろうから、ということでしょうか」
高校は一回転校していて、東京にいた頃は平也と同じ学校だったと聞いた。
どういう知り合いだったのかは興味がないから聞いたことはないが、ろくな知り合い方じゃないのは予想できた。
「カツアゲしてきた上級生のナイフを奪ってやり返していたからね。度肝を抜かれたよ」
「一緒にしないでください」
実を言えば、初斗は血のにおいが苦手だ。医者になるなら乗り越えなければならないところだから、我慢している。
精神科医になるには、基礎の医学を履修しなければならない。
外科、内科の知識も持っていて初めて精神科医の研修医になれる。
いっそ精神科の知識だけで医者になれるならとも思うけれど、外科の知識がないと自傷行為をする精神科の患者の手当ができない。内科の知識がなければ拒食症の患者のケアもできない。
すべての医学はどこかでつながっている。
スマホがメール着信の音を立て、見れば母からの連絡だった。
「従妹の旦那さんが亡くなったから葬儀に参列してくる、週末の予定はキャンセルで」と。
今週末はバイトを入れていなくて、久しぶりに母の元に顔を出す予定だったけれど、そういう事情なら仕方がない。
画面上に表示された時間を見れば、もうすぐ昼休憩が終わる時刻。
次の授業の準備をしないといけない。深呼吸して立ち上がる。
「そういえば、なぜぼくがここにいるとわかったんですか」
「ワタシが白兎で、君が帽子屋だからかな」
「そういうことにしておきます」
意味のわからないことを言ってはぐらかすなら、何度聞いても答えてもらえない。
実習室に向かう途中で、看護学科の制服を着た女子生徒が話しかけてきた。
「あの、初田先輩。美味しいブレンドコーヒーが飲める喫茶店を見つけたんです。放課後、よかったら一緒に行きませんか」
中学の時から、こんな風に顔も名前も知らない相手が自分を知っていて何かに誘ってくる、という状況がよく起こる。
自己紹介したこともない相手に知られているという状況、全く理解できない。
「あいにく、コーヒーは嫌いなんですよ」
「そ、そうですか、じゃ、じゃあなんのお店ならつきあってくれますか」
「……授業に遅れてしまうので、もう行っていいですか」
「あ、は、はい、すみません、お邪魔してしまって」
女生徒は目に涙をためながら走り去ってしまった。
「コーヒーを飲むだけなら一人で飲みに行けばいいのに。赤の他人であるぼくを誘う女性の心理というのは本当にわかりません……。そういえば集団行動を好むと本に書いてあったような。でもそれなら友人を誘うでしょうし」
またあとで医学書を開いてみよう、そんなことを考えながら、初斗は実習室に向かった。