6 “普通”の感覚なら
大学二年生になり、初めてチームで解剖学実習をやった日。
帰ろうとする平也を教員が呼び止めた。
「嘉神くん、少しいいかい」
平也の父と同年代の男だ。
白髪が交じり始めた髪を短くしていて、ブルドッグのようなたれた顔立ちをしている。
無視すると成績に響きそうな気がして、しぶしぶ振り返る。
「今日の実習のことなんだが」
「……なにか?」
平也の記憶にある限りでは、実習の献体にメスを入れるときに手元は一度も狂わなかった。
血が吹き出ないからあまり人間を切ったという気がしない。
解剖実習の献体は心臓が完全に停止しているから、血液は流れない。
高校でセンパイを切ったときはあんなに心躍ったのに、感動もへったくれもない。
教員は言葉を選びながら話す。
「僕はもう十年以上は医大の教壇に立っているけれどね、教科書やビデオで事前に知識だけは得ているが、実際に人間にメスを入れるとなると戸惑うものだ。けれど…………君は、初めてなのに、一度もためらわず、顔色一つ変えずにメスをいれたね」
言葉尻をやや濁して、ちらりと平也の表情をうかがう。
「聞かれることをわかっていたという顔だね」
「別に。何年も執刀している外科医だって普通の顔をしてメスを入れるんだろう。慣れるのが遅いか早いか、それだけの違いじゃないですか」
それっぽいことを言ってみるが、この男は納得してくれなかった。
「いいや。人間は本能にはあらがえないものだ。頭では理解していても、心が拒絶する。君以外のメンバーがどうだったか、見ただろう。最初はみんなああなんだ。なのに」
ある者は気分が悪くなって吐き、またある者は手が震えていた。
「……僕が教壇に立つようになる前、一度診察した患者が、まさに君と同じだった。君にはそうなってほしくない」
サイコパスの患者と関わった経験があると言いたいらしい。平也にもサイコパスの片鱗を見たと。
この教員の名前はなんだったか。平也には高齢の人間は全員同じ顔に見えるから、違いがわからない。
黙っていると切々と道徳について説かれそうな予感がして、さっさと話をぶった切る。
「話はそれだけですか? 俺、図書館で資料を読みたいんですけど」
「あ、ああ」
これ以上話すことはないとオーラを出していたのを感じ取ってくれたようで、まだなにか言いたげだったがおとなしく見送ってくれた。
平也は指定席と化した席に分厚い医学書を持って行き、前回の続きを読み始める。
学校は違えど、初斗も医大に通っている。今頃は平也と同じように人体解剖の実習を始めているはずだ。
あれもまた、平気な顔をして死体にメスを入れるんだろうか。
それとも、普通の人間のふりをしようとしているから、みんなと一緒になって青ざめているか。
本質が平也と同じサイコパスだから、平気な顔をしている方に軍配が上がる。
平也の中では、小学生の初斗のイメージが強い。
虫も殺さなそうな顔をしながら、捕まえた赤とんぼの足と頭をちぎって玄関先に並べていた。
そんなイカれたガキがまともな大人になれるなんて思っちゃいない。
マトモな大人がどういうものなのか、父の廉也は論外。
仕事以外の能力がゴミカスだ。
炊事洗濯掃除が全然できないから、結局嘉神の祖母が家事をしにくることになった。
暗くなり始めた空を見て、平也は本を棚に戻した。
「あ、あの、嘉神センパイ。勉強、得意ですか。いつもここで医学書を読んでいますよね。わからないところ教えてほしくて」
図書館を出ようとしたところで、名も知らぬ女に声をかけられた。
平也をセンパイと呼んだから、同じ学部の一年。わざとなのか、あまったるいしゃべり方が癇に障る。
本当に勉強したい人間なら、わざわざ勉強を教わる相手に平也なんかを選ばない。
こいつがしたいのは勉強ではなく、男あさりだ。
「学生の俺でなく教員に聞け。それがあいつらの仕事なんだから」
それだけ言い捨てて平也は家路についた。
途中コンビニでサンドイッチと缶コーヒーを買い、コーヒーのプルを開けて飲みながら歩く。
渋谷あたりにいくと、ファッション誌や芸能事務所にスカウトされることが度々ある。
だから一般的な評価に照らし合わせるなら、平也と初斗は人目を引く整った容姿をしているらしい。
(性格を知れば逃げ出すくせに、顔だけで判断して近寄ってくる馬鹿ばかりでめんどくせえ)
さっきの女は、おそらく優しく指導してくれる男を想像していただろう。冷たく言っておけばもう二度と声をかけてこない。
平也は、男に媚びる女がとくに嫌いだった。
けっこう辛辣な言い方をして突き放したのに何度か声をかけてきた馬鹿がいたな、と、なんとなく思い出した。
それも一瞬のことで、明日やる解体の続きに頭がいく。
幸運なことに、今回の献体は背格好が廉也と近い中年期の男。
実際に廉也を殺す段になったら、この実習は必ず役に立つ。
初日の実習姿を見て平也の持つ狂気に気づいたのなら、あの教員は人を見る目がある稀有なタイプだ。
いまさら怯えるフリなんてしても意味はなさそうだから、今後も堂々としていることに決める。
通りがけにある自販機のゴミ箱に空き缶を押し込んで、平也は家の鍵を握った。