3 捕食されることを良しとするな
放課後になり、平也はまっすぐ家に帰った。
玄関扉を引くと、弁当惣菜の空きパックを詰めた袋が転がる。
兼業主婦だった母・初音がいなくなったうえに、家事を率先して手伝っていた初斗もいない。家事をしない男二人だけだから食事もスーパーや弁当屋の弁当ばかり。
たまに嘉神の祖母が様子を見に来て掃除するけれど、毎日ではないからゴミがたまる一方だった。
三和土に靴を放り、自室に向かう。
初斗と二人で使っていた八畳間だが、一人部屋になってだいぶ広くなった。
感慨というものを持つ人間なら、寂しいとでも感じるのだろう。
あいにく平也は一人でいることを寂しいと思うタイプではない。
学ランと鞄を畳に投げ出し、敷き布団に寝転がった。
一時間ほどうたたねをしていると、父・廉也が帰ってきた。
片手には弁当屋の袋を下げ、ネクタイを緩めながら平也の部屋を覗き、眉をひそめる。
「平也。田中さんから昨日進路希望調査が配られたと聞いたんだが。わたしは見せてもらっていないぞ」
田中さんというのは廉也と同じ銀行員で、そこの息子が平也と同じ高校に通っている。プリントの出し忘れやテストの日程などを指摘されるので面倒くさいことこの上ない。
平也は舌打ちして起き上がる。
「帰って早々それかよ。別に進学でも就職でもなんでもいいって」
「初斗は小学生の時から精神科医になるって張り切っていたのに、お前ときたら……」
「あいつの話をするんじゃねぇ!」
廉也としては初斗と平也の二人ともを引き取りたかったらしいが、初斗本人が断固拒否した。
「ぼくは母さんと一緒に行くよ。母さんは病気がちだから、一人暮らしだと大変でしょう?」
と、もっともらしいことを言っていたが、平也と一緒にいたくないからだと平也はよく分かっている。平也も、初斗が廉也についてくると言ったなら母の方についただろう。
自分の子どもたちが険悪だという事実に気づかずにこんな台詞を吐けるのだから、始末に負えない。
「大学に行くなら、高校みたいにどこでもいいなんていう無意味な理由で選ぶんじゃないぞ。金を出すのはわたしなんだ」
家の近所だから通学が楽……という理由で高校を選んだことへの最大の皮肉だ。
大学進学はかなりの資金が必要だから、言わんとすることはわかる。途中で飽きたからやめるなんてことになったら、札束をドブに投げ捨てるようなもの。
「初斗は神奈川の医大を受けると言っていたが」
「だから? それは初斗の話だろ。俺は別の人間だ」
「そんなことはわかっている。わたしは言葉遊びをしているんじゃない。弟に負けたくないとは思わないか。別に医者になれと言うわけじゃない。進路をしっかり決めろと言っているんだ」
「へえ、普通の人間はそう思うものなのか」
平也は比較されることが嫌いだ。
その比較対象が、この世で一番嫌いな相手、初斗なのだから声がとげとげしくなるのは仕方のない話。
ぐだぐだ説教されるのが面倒くさくて、平也はてきとうに思いついた都内の医大の名前をいくつか進路希望調査票に殴り書きして、廉也に叩きつけた。
「なら、俺も医大に行く。それでいいだろ」
「なんだその言い草は。真面目に医師を目指している人間に悪いと思わないのか」
「決めろって言ったから決めたのに、なにが不満なんだ。めんどくせえ」
廉也も言い争う時間が無駄だと思ったのか、舌打ちした後足早にキッチンに行ってしまった。平也は買い置きしてあった栄養補助クッキーだけ食べてまた寝る。
翌日。担任に進路希望調査票を提出すると、担任は大喜びだった。
「そうかそうか、嘉神は医者になりたいのか。何科の医師になるのかはもう決めているのか?」
精神科医だけはない、と頭の中で除外する。
どうせなら初斗と全く関係のない科。
昨日生徒をナイフで切りつけたときの高揚感を思い出し、またやりたいと思った。
外科医なら、手術というきちんとした理由で人を切ることができる。
人を切って金をもらえる仕事はどれだけ楽しいだろうか。
「外科医」
「おお、そうかそうか。嘉神は成績優秀だから、今のまま学力を維持すれば推薦もいけるだろう」
平也が外科医だと言った理由などつゆ知らず、担任は我がことのように喜んでいる。
学力と授業態度だけで判断すれば、平也は立派な医者志望に見える生徒だった。
昼休みになり、平也はまた昼寝場所を探して校内を歩いていた。廊下で昨日の五人組のうちの男三人と出くわし、足早に詰め寄ってきた。
「昨日はよくもやりやがったな。お前のせいで腕と顔を五針縫ったんだぞ」
無視して廊下を歩き続ける。あえて教員室の前を通るルートで玄関に向かうと、教師の目を気にしてかついてこなくなった。次問題を起こしたら停学一週間だと言い渡されているらしい。
校庭は日当たりがよく、桜の木が何本も植えられていてほどよく日陰がある。
桜の下に歩いて行くと、白兎が平也に歩み寄ってきた。
「なんか用か?」
「あの、これ、昨日のお礼……」
下を向いてどもりながら差し出してきたのは、第二玄関前の自動販売機で売られている缶飲料だ。
アイスレモンティーは外気との温度差で、缶の表面が湿り気を帯びている。
「俺、紅茶嫌い」
「え、あ、そ、そう、ですか。じゃあ、今から別のものを買って……」
「代わりをよこせなんて言ってないだろ。それはテメェで飲め」
断られると思っていなかったのか、白兎はおろおろしている。これまで何度も金や物をせびられてきたのか、下僕根性的なものが染みついているようだ。
平也は桜の根元に座り込み、ポケットから自販機で買ったブラックコーヒーを出してプルトップを開ける。
白兎は立ち去ることなく、じっと平也を見ている。
「ど、どうして、そうしていられるんですか。昨日のあの人たち、私以外にも何人もの子にお金を要求していて、逆らうと殴ってくるのに」
「ホホジロザメが豆アジに怯えると思うか?」
「へ?」
平也の言葉の意味が分からず、白兎は目を瞬かせる。
「おまえらはプランクトン。プランクトンを食って生きるのが豆アジ。あいつらはプランクトンのくせに世界一強いって勘違いしている豆アジ。そして俺はホホジロザメ。わかるか?」
「わかりません」
「だろうな」
平也の例え話をすんなり理解できる人間がいるとしたら、似たような思考回路を持つ初斗くらいだ。
「でも、あの、助かりました。私、母のために医者になりたいんです。昨日は塾の受講料を持っていたから、取られていたら通えなくなるところでした」
「へえ」
「母はうつ病になってから部屋にこもりがちなので、医者になれば支えてあげられると思って」
廉也の言う、本当に医者になりたい人間というのは白兎のような人を指すのだろう。
「その大事な大事な勉強のための金を、あんな馬鹿どもに差しだそうとするなんて。お前馬鹿だな」
「返す言葉がないです……」
ほぼ初対面の平也にここまで言われても言い返せず、下を向いている。
「金を取られるのが嫌なら、せめてプランクトン以上にはなれよ。じゃあな」
空になった缶をくずかごに投げ入れて、平也は教室に戻る。
気弱だが、白兎は平也よりはまともな医者になるのだろう。無自覚に自己犠牲な面があり、親を気遣う……おそらく初斗と気が合うタイプだ。
翌月、白兎は母の療養のためということで隣県の田舎町に引っ越していった。
数年後。白兎と初斗が医大で先輩後輩になるのだが、それはまた別の話。





