まぁだだよ
完全に怪談です。
怖いお話が苦手な方はご注意ください。
これは、私がはじめて一人暮らしをした部屋での出来事です。
「今日からここが私の部屋かぁ」
大学を卒業し、就職と同時にその部屋を借りました。
駅から十分ちょっと歩いた所にあるアパートで、間取りは六畳の1Kでしたがトイレとお風呂別、クローゼットもあり日当たりも良かったので、一緒に内見した母とここにしようと決めました。
家賃も他で内見した部屋と差ほど変わりなかったのですが、五階でベランダ付きというのも、実家では一階の部屋だった私には魅力的だったのです。
最初の一か月は仕事と一人暮らしという環境に慣れることに必死で、部屋に帰れば夕飯も食べず、化粧も落とさず寝てしまうこともしばしばありました。
「洗濯って結構大変だったんだぁ……」
『そうよ、一人暮らしして分かったでしょ? 家事の大変さも』
「うん、お母さんはすごいよ」
実家自体は、アパートから二駅くらいしか離れていませんでしたし、何かあればすぐに母に電話をかけていたのでホームシックになることはありませんでした。
『夕飯はきちんと食べなさいよ。もし作る元気ないなら、ご飯だけでも食べに帰ってくればいいし……』
「それじゃ、何のために一人暮らししたか分かんないよ。ちゃんと自立しないとね」
『無理しないようにね。仕事もまだまだ憶えること多くなるだろうから……お友達?』
「へ?」
母の急な問いに、私は戸惑いました。
『お子さん連れてるお友達でも遊びに来てるの? それなら別に電話はよかったのに』
「えっ? お母さん、何言ってるの?」
『違うの? ならテレビかしら?』
「だから、何言って……」
『だって、さっき子どもの声がしたような気がして……』
私と母はしばらく無言になりました。
私は耳から携帯を離し、辺り見回してみました。
近所では確かに子どもが多かったのですが、母に電話をかける時間はいつも夜の二十一時を過ぎていましたし、子どもの声を気にすることは殆どありませんでした。
「き、気のせいじゃない?」
『そう、よね。こんな時間だものね』
その日は、これで終わりました。
しかし、その子はずっとそこにいたのです。
ゴールデンウィークを過ぎたあたりで、仕事自体にも慣れ、どうにか生活に余裕が出てきた頃でした。
仕事から帰り、作り置きをしていたカレーを食べながらテレビを見ていた私は、視線のようなものを感じて、振り向きました。
でも、振り向く度にそれが消えるのです。
「……気のせい?」
何度か繰り返していましたが、やはり何もなく、疲れているのかも、と思っていました。
しかしその日はなぜか普段感じないような気味悪さを感じたのです。
時計を見ると母が寝てしまっている十一時近くになっていたため、私は申し訳ないと思いつつも友人に〈少し電話をしてもいい?〉とメールをしました。
『五月病じゃない?』
電話に出てくれた友人は、ちょっと呆れ気味でしたが、『仕事に慣れてきた時も危ないだってよ』と心配もしてくれました。
「そんなに今は大変でもないんだけど」
『こういうのって自覚症状がないらしいから、ちゃんと気晴らし……誰かいんの?』
「……え?」
友人の言葉に、私の体は強張りました。
「誰も、いないよ……?」
『声、してるけど……』
「声?」
私がそう言うと、急にまた視線を感じたのです。
今度ははっきりと見られていると分かりました。
『ほら? 聞こえないの? 子どもの声……!』
「……子どもの声?」
『うん』
友人が返事をした瞬間に、私は勢い良く振り向きました。
そこには、まるで誰かがこっちを覗いていたかのように、ほんの少しだけ開いたクローゼットがありました。
「ね、ねぇ……今からそっち行っていい?」
『う、うん。大きくなってるから、急いだ方がいいかも……』
「大きく、って?」
『もういいから……!』
震えながらも叫ぶような友人の声を掻き消すように、男の子の金切り声が私の耳元で――
まぁだだよ
その後の記憶はありません。
私の声が途絶えてしまったことで、友人が慌てて私の実家に連絡を取ってくれて、すぐに両親が部屋に来てくれました。
その時の私は、部屋の隅で、クローゼットからは背を向けて、ぶつぶつと数字を数えていたそうです。
そして、「もういいかい?」とも……
私はすぐにその部屋を引っ越しました。
しばらくは実家にいるつもりですが、次に部屋を探す時は、ベランダ付きでクローゼットのない部屋にしようと思っています。
もうあの子とかくれんぼをしたくないですから……
~おわり~