脅されたタクシー運転手
昨日は初めての体験だった。ビールを飲み、食べれないだろうと思うほど白米をかき込んで、叔父の言われるがままホルモンをそれはそれは食べた。ミノ、ハツ、テッチャン、ハチノス……部位も様々、歯応えも味もみな違っていた。虐待されていた時は、腹一杯なんて食べる事もできなかった。
師匠に拾われてからやっと満腹を知った。ロシア料理は美味しかった。
だがやはり、自分は生粋の日本人なんだと、この日実感させられた。それこそコミュニティで、カーシャというロシアのお粥は何度も食べたがパンが殆どだった。不満は全く無い、肉も魚も野菜も食べさせてくれたから、それすら満足に与えられず、痩せ細った僕をこうも作り替えてくれたから。
だが、白米って、ご飯ってこんなに美味しかったんだなと、膨れ腹に苦しむほど食べて、多幸感に包まれた。
そんな昨日とは打って変わり、今朝は質素なものだ。菓子パンにインスタントコーヒーである、というのも買い出しに行ってなかったのだ。後で調べたらなんと、英和田下方側にはコンビニが無かったのだ。こんな治安だから建てれないのだろうなと思いながら、僕はチョコチップスティックとクソ甘コーヒーを腹に入れた。
時刻は7:30、この倉庫の宿直室にはシャワーもあり、それを浴びてから僕は制服に袖を通す。中高一貫私立の緑陽中は、ブレザータイプであり、ネクタイを巻いて通学鞄を持ち、僕はスマホを取り出しながら宿直室から、倉庫の扉まで歩く。宿直室を出てから倉庫扉まで遠いのは仕方ない。
僕は昨日登録しておいた電話番号に電話をかけた。
『はい、おはよう御座います、英和田タクシーですぅ』
『英和田港に一台、お願いできますか?』
『はい、どちらまで行かれますか?』
『英和田駅まで、上方の方につけてくれますか?』
『はい、今向かわせますんで、ちょっと待ったってください』
中場先生に教えて貰った、英和田タクシーに電話をかけた。上方の制服を着た学生は下方にまず居てはならない、カツアゲの標的にされるので、登校はタクシー使えと言われたからだ。昨日も、駅からこの港まではタクシーを使った。
倉庫の扉を開けると、港にはタンカーが停泊し、クレーンが動き、フォークリフトが走り、そして安全服にヘルメットを被った男たちが、忙しなく動いていた。その中で、ブレザータイプの制服が歩く様は何とも目が付きアンバランスな事か。
何人かは僕を目にして奇異目を向けはしたが、すぐに仕事へ戻っていく。港の入り口に差し掛かると、もうタクシーが一台待機していた。
「お!おはようぼっちゃん!」
タクシーの傍で缶コーヒーを傾けていたのは、昨日港まで送ってくれた皺の多いドライバーだった。
「また会いましたね、おじさん」
「無線でなぁ、港に一人言うからもしかしたらって、丁度通っとたんよ、もう行こか?」
「いや、どうぞコーヒー飲んで」
「あんがとなぁ」
コーヒー飲み干すくらいで、遅刻はしない。悠々と送ってもらおうと、僕はドアの開かれた後部座席から乗り込む。数十秒して、ドライバーは運転席に乗り込みエンジンを吹かした。
「ぼっちゃん、名前なんて言うん?」
「中井真也です」
「ほうか、越してきたん?」
「ええまぁ」
「あぁーそれで、上方の学校なんや?」
他愛無い会話が続く中、ふとメーター横に顔写真と名前が貼られているのに気付いた。『佐田小鉄』と言う名前らしい、このドライバーさんは。
「住まいは下方、学校上方か、大変ちゃう?」
「さぁ?昨日来たばかりですから」
「まぁ気ぃつけよ、下方では制服で出歩かんようにな?」
そうして話していれば、あっという間に僕の通う緑陽中学についていた。僕は財布を取り出して、千円札と小銭を受け皿に置いて、開かれたドアから出て、佐田さんに頭を下げた。
「ありがとうございます」
「おおきにな、またよろしゅう、いってらっしゃい」
いってらっしゃい……こんな言葉も掛けられたのは初めてかもしれない。さっさと行け、遅いよグズ、それが当たり前だった虐待の時と、コミュニティで育った時は学校に行っていなかったから、こうして送り出されるのは初めてだなと、少し胸が熱くなった。
「行ってきます」
思わずそう返し、僕は改めて、これから6年通う新たな学舎に足を運んだ。
佐田小鉄は、英和田タクシーに勤続するタクシードライバーである。58歳で、勤続30年、上方側に住まう男で、この街でタクシーを走らせてきた。妻は先立ち、息子が居たが今は自立して他県へ住んでいる。
長年タクシーを走らせた身として、様々なトラブルを経験して来た。無賃乗車しかり、酔っ払いしかり、外国人も乗せたか、様々な客を乗せた。そして昨日今日と、英和田に越して来た中々顔のいい学生を送迎し、英和田駅に戻って、無線と客を待つ。
最近は上方の開発が進み、朝と夕方の送迎が増えたが、下方側の客は全くだった。そもそも彼が勤続して数十年は上方だ下方だはなかったが、土地開発が始まりここ数年でこうなったのである。そして、私鉄英和田線がその境目、国境、境界線となった。
佐田は、中井真也を送り届けて、客待ち……いや、この時間は暇になるので、車中でシートを倒し横になっていた。今朝から上方の開発地区に何人か乗せては駅に帰る往復を終え、そのピークは過ぎた。次は昼に緩やかな流れ、夕方にピークが来る為、それに備えていた。
そんな時だった。コンコンコンと、早いリズムで車窓を誰かがノックしたのだ。
「ん?」
シートを起こして、佐田はギョッとした。短ランで、いかにもなリーゼントの英和田面なヤンキーが此方を除いていたのだ。しかし佐田も英和田の人間、この程度のことで慌てたりはしない。窓を開けてヤンキーのノックに応じた。
「なんや、下方のガキがこっち来て……乗るんか?」
「乗らんわ」
北側、すなわち開発地区の上方には下方の学生を立ち入る事は禁じられている。境界線である、もし立ち入れば……警察呼ばれても仕方がないのがこの町の法律とは違う、学生の決まりでもあった。そんな決まりを破りヤンキーが訪ねて来たのは、冷やかし以外あるかと佐田は声を荒げた。
「冷やかしかい、去ねや、用もないのに窓叩くな」
「用あるから叩いたんや」
「何や、はよ言い」
「おっちゃん……さっき茶髪のがくせー乗せとったやろ?」
用は人探しだった、そして佐田はこの下方ヤンキーが、自分が誰を乗せていたかも知っているらしい。
「それがどうしたんや、タクシーやから客乗せて送るやろ」
「そいつどこに送った?名前は?」
「教えるかアホ、顧客情報や」
「教えてや、なぁ」
ヤンキーの人探しなど、理由は知れている。そう言う事である。無論佐田は英和田の人間だが、まともな人間だ。守秘義務、プライバシーを守る為、話すわけあるかと言い返す。
「教えてどうするんや?」
「おっちゃんには関係無いやろ?」
「アホか、聞いとる時点でおおありやろ、ええ加減にせえよワレ?」
「ええから、なぁ、教えてや」
「警察呼ぶぞ?」
無線に手をかけると、ヤンキーは舌打ちして去って行った。佐田は窓のボタンを押して溜息を吐いた。送り届けた少年、中井真也、やはり目をつけられたのかも知れないと、学校に連絡しておくべきかと考えていると。後部座席が乱雑に開かれた。
「あ?お客さんですーー」
そして、佐田はルームミラーを見て、目を見開いた。そして体を強張らせた。
「おうワレィ……」
「ト……トオル!?」
後部座席を占領する様に座る、短ランの老け顔のリーゼントの巨漢がそこに居た。
この瞬間、佐田は運転席から出ようとした。しかし……ドアを開けれないようにとヤンキーが体をの預けていたのである。それだけではない、全てのドアが塞がれてしまったのだ。
「教えんかいぃ、茶髪のガキぃ……どこ居るんや?」
英和田町下方……そこには6年間、全てのヤンキーや暴走族、果てはヤクザを恐怖に陥れた不良が居た。
菊川トオル。
住んでいるのは東英和田であり、英和田水産の総番長は、ともかく手のつけられない不良だった。身長は190cmの巨体であり、下方の高校全てのヤンキーや暴走族が恐れをなすその男は、絶対18歳なわけあるか28やろと言われる老け顔と、時代遅れなリーゼントという出立ちだった。
英和田町において菊川トオルに出会う事は、災害を意味する。地震洪水火事親父トオル、序盤の初見殺しエネミー、負けイベントと同義であった。
佐田小鉄も英和田の人間であり、トオルを知らない訳がなく、逃げようとしたらこの有様であった。
「教えて、どうすーー」
言い切る前に、運転席が思い切り蹴られた。有無を言わせないと、睨みを利かすトオルが怒声をあげた。
「オドレ耳ないんかぁ!教えろ言うとるやろワレェ!!イてもうたろかゴラァ!?」
「ううっ!?」
佐田は心臓を潰されかねない感覚に襲われた。言うわけには行かない、上方の、しかも普通の学生の情報をこんな輩に渡したら、酷い目に遭う。しかし、タクシーを兵隊が囲み逃げ場が無い。佐田はどうするかと辺りを見回す。
だが、事態は好転した。
「おうこらオドレらなにさらしとんじゃあこらぁ!?」
「警察や!下方のガキ共がなにしとんや!!」
そう、警察である。誰かが通報した……のではない。
英和田駅北口で、ヤンキー達が立ち入ったら必ず、常駐の警察が出てくるのだ。さらにすぐ応援も駆けつける、下方のヤンキーが上方の景観を汚す事を決して許さないのだ。
「ああ!?マッポが何の用やコラァ!!」
「すぐ終わるけぇちょお待ったれやぁ!!」
「待たせる事しとんのかごらぁ!!おい応援呼べ!!」
英和田駅、北側タクシー乗り場は一気に警官と下方ヤンキーの怒鳴りあいに包まれた。それを見た佐田は後ろを向き、苛立つ菊川トオルに言い放つ。
「警察くるど、少年院行くか?」
菊川トオルにそう言ってやった。しかし……。
「おどれ、面と番号覚えたど?」
「あっ!?」
佐田、痛恨のミス。メーター横の乗務員証を隠すのを忘れていたのだ。
「おう、今日英和田神社まで茶髪のガキ連れてこいや、来んかったら……会社まで来たるけぇのぉ!!」
捨て台詞を吐き、トオルは扉を開けて、わざわざ蹴ってから外に出た。そしてーー。
「おうごらぁいい!!」
「ぎゃあ!?あぁ!トオルお前こらぁ!公執やぞ公執!!」
なんと、警官に蹴りを入れて、トオルは駅に逃げて行ったのである。
「捕まえろ!応援追加や!!」
「機動隊も呼べぇ!!」
警官達がトオルとその取り巻きのヤンキーを追う、その最中、佐田小鉄は、気が気でなかった。乗務員証には住所も記載されており、トオルは本気で、襲撃を企てるだろう。
こいつはやる、何が何でもやる、警察が来ようがヤクザ相手だろうが、関係なくやると、佐田は知っていた。耐え難い恐怖と焦燥感に心臓を焦がされそうになった、タクシードライバーの佐田は、しばらく何もできずただ体を震わせるのだった。