迫り来る捜査網
細い路地から抜け出した僕は、大通りに出た。今の現在地など分からない、しかし港の方角は覚えている。まさか、引越し初日に二回喧嘩をするなどとは思いもよらなかった。
けど……実感が湧く。強くなったのだと、いじめっ子を壊した時も、いとこを殺した時も……心臓が跳ねてゾクゾクした。それが今の自分に起きているのだ。
「はあ、はあ、はあ……はぁ……」
過呼吸になりそうな程、息が荒くなる。明滅が起こり、一瞬目眩を感じた。息を整えながら、僕はゆっくりと歩き出す。どうしようか、もう倉庫に帰ろうかな……じめついた嫌な汗をかき、歩を進める。
思えば、自由な時間なんてあまり無かったなと、僕は昔を思い返した。締め切られた離れで、薄暗く……学校の時だけ鍵を開けられて……師匠に拾われるまでは、師匠が手を回さなければずっとそうだった。
今はこうして自由に歩き回れている事が感慨深い……。
いっそあいつらも山奥なりに監禁して長い時間かけて殺しておくべきだったかな、惜しい事をしたが、もう骨も残らず処理してやったから無理だけど。
そんな考えを巡らせて、目眩やら動悸は引いてきた。我ながら気持ちの悪い事だ……。
とりあえず……歩こうかとその足の方角は倉庫には向けず歩き続ける。先程の小路と違う、比較的綺麗な民家の立ち並ぶ通りであった。昭和の古民家と言うより、さらに昔からある武家の屋敷か、塀も歴史を感じるけど汚くはない……本当に昔から住んでいる人たちの区域なのか、はたまたお金持ちの住む区域なのかと想像を掻き立てられる。
さっきの暴走族も居ない場所だなと、その静けさが心地よい。本当に、混沌とした町だなとあたりを見回しながら足を動かしていると、鳥居を見つけた。
神社か……手入れされた大鳥居だなと眺め、斜め上に続く石段が見えた。少しばかり行ってみるかと、僕はその鳥居を潜り石段を登る。
師匠とのトレーニングで、階段ダッシュをやった事を思い出してきた。しっかり腿を上げながら登ったり、小刻みに早く登ったり、できる限り段飛ばししながらと、色々したなと。
普通に登っても中々の段数だった、そして現れた立派な神社……掃除も行き届いた立派な神社だ、この辺りの重要な神社なのかなと思いながら、登ってはみたが別に参拝する気は無い。
踵を返し石段を降りていくと、また喧しいエンジン音が響いた。まだ居るのか、こんな昼間から暴走族がと、中井はゆっくり石段を降り切った所で、ちょうどそのエンジン音の正体が横切った。
一瞬だったが、人数は少なかった。青い特攻服の7.8人が、改造バイクに跨って、中井の前を通り過ぎたのだった。
その一瞬、暴走族のメンバーの1人にして、改造したCB400sfに跨っていた谷村正志は、私服の少年の顔が目に入った。
「あぁ?」
何の事は無い、一瞬目が合ったような気がして遠のく姿を首を向けてみたが、すでに背を向けていた。しかし……谷村はその顔を見た瞬間、この英和田の人間では無い事に気付いたのである。
面構えが違う、あんな優男、この辺りにはまず居ない、上方の人間が私服でこんな時間に一人で街を歩くか?
谷村正志は不良、ヤンキーではあるが思慮深い部分がある。そして記憶力も良かった、それこそこの町で見知った人間と名前を全て覚えている程に。
谷村の記憶の中に、あの顔は存在しなかった。しかし……だからといって今通り過ぎた輩が、あのトオルを投げ飛ばしたなどとは思えない。
「タニィ!どうしたんや!」
「何もあらへん!!」
まさかなと思った谷村だったが、斜め前を走る剃り込み坊主の声に引き戻され、応答と共にエンジンを喧しく吹き鳴らした。
ーー英和田町、下方は中央……そこに建てられている学校がある。
『市立英和田水産高校』
この英和田町は下方には、公立高校が4つある。
それなりのアホと普通の奴らが行く『英和田高校』
アホと親の仕事継ぐ奴が行く『英和田工業高校』
頭いい女子と頭いい男子が行く『英和田商業高校』
そして……どうしようもないアホと、ヤクザからの勧誘待つ奴らが流れ着く『英和田水産高校』
私立高校は無い。下方から、上方や県外の私立高校へ行く輩は数える程しか居ない、そいつらは大概スポーツ特待なり勉強特待生が取れた奴らで、年に二、三人居るかというぐらいだ。経済的な面からしても、下方は貧困者が多かったりする、むしろ宵越しの銭を持たない気質の輩が多いのもあるが……。
そんな下方の英和田水産高校は、高等学校とは名が付いているが、最早学校の体を為してはいなかった。
まず、正門に掲げられた木製看板には、落書きや彫られた傷がつけられて、有刺鉄線が取り付けられている。そんな正門より見える校舎の窓ガラスは幾つも割れたままとなり、蔦も張り巡らされて、知らぬ人間にこれは廃校舎と言っても信じるだろう。
その内部は最早蠱毒の如く、不良達の巣窟であった。改造制服は当たり前、教室は最早授業など敵わずタバコを吹かしながら雑誌に目を向けて、麻雀にうつつをぬかし……何処かの教室から怒号と叫びが聞こえ、ガラスが割れる音がする。ここだけ昭和後期で時代が止まっている様にすら錯覚させられた。
その屋上に、一際大柄な男が粗大ゴミから持ってきたボロのソファに座して、ギリギリ歯軋りして喉を鳴らし痰を吐き散らす。その前では幾人もの、同じリーゼントやら坊主頭のヤンキー達が、正座をさせられていた。
「おぅごれぇえいい……まぁだ見つからんかい、おお!?」
大柄な男が、苛立ちながらそう言った。
「そ、そうは言うてもトオルちゃん、トオルちゃん投げた奴見つけろ言うても、そもそもどんなやつかーー」
その内の1人が、そんな反論を挙げた矢先に顎が跳ね上がった。ソファから立ち上がり様に、顎を蹴り上げたのである。
「わしが見つけろ言うたらさっさと見つけんのがおどれらやろがぁあ!おおっ!?」
無茶苦茶な暴論を振り翳すこの男、このアホとボケとカスの巣窟、英和田水産高校で番格を張る男、名は菊川トオルという。
彼をこの英和田で知らない奴は居ない、上は爺さんから下は保育園児まで、知らないのは死んだ奴と生まれてない奴くらいだろうと英和田内で思われる、英和田の『顔役』らしい。
まず、高校生離れした、3.40代らしい顔つきにリーゼント、日本人男性の平均身長を超えた190cm近い巨躯。手がつけられない短気粗暴な、暴君である。
英和田内の地元ヤクザも、暴走族もこの男には絶対関わらない様にしており、一度目をつけられたら最後、身ぐるみ剥がされ数ヶ月流動食を食うハメに成る程痛めつけられるとまで言われている。
そして、そんな菊川トオルは今朝……喧嘩に負けたのであった。いつも通りの英和田線、アホなガキから金を徴収しようとしたら、窓から放り投げられ川に落とされたのである。
人生の中で、喧嘩に負けた事は一度も無かったトオル。その敗北は走行中の電車から川に投げ飛ばされてという、いつの時代の不良映画なのだと非現実的な負けに、トオルは下っ端達にその相手を探させて、今に至る。
対して……トオルの敗北が信じられない面々、その敗北は英和田の下方全域を駆け巡ったわけだが……妙な噂が立っていた。
「ト、トオルちゃん……その負け……投げられたっちゅう相手……学ラン違うんか?」
正座させられた1人のリーゼントが、恐る恐る訪ねた。しかし、トオルは顎を蹴り上げた輩から、そのリーゼントに顔を向けるや、両腕で襟を掴み無理矢理に立ち上がらせたのだ。
「おうワレぃ!!ワシがかみがたの糞ボンボンに投げられて負けたっちゅううんかぁ!!」
「いや!そんな違うやん!けど、けど下方にブレザーのがっこーないや……」
「じゃかあしゃああ!」
「ぶげぁああ!!」
トオルが頭を顔面に叩きつけ、一撃でリーゼントの鼻を圧し潰した。『ブレザー』という単語が、トオルをさらに苛立たせたのだ。
というのも……英和田町は下方の学校、中高全て制服は『詰襟』なのである。ブレザータイプの制服を採用していないのは、下方の学生では当たり前であり、下方からすればブレザーで歩く輩は全員『上方』の学生なのだ。
そして……トオルを投げ飛ばした輩は『ブレザー』を着ていたのだという。
つまりトオルは、下方の同じ不良に負けたのでは無く、上方のボンボン学生に負けたという噂……いや事実が広まっていたのだ。
これだけでもう、不良としての格は一気に落ちたと言っても過言ではない。同じ下方のヤンキーに負けたならば、時代が変わったとかトオルを負かした奴が居ると、まだ格落ちは無いだろう。
しかし、上方のぼっちゃん学生に負けたとなれば、話は別だ。
『菊川トオルは、上方の学生に負けたシャバ僧だった』
この事実が広まりつつあるのだ。
そしてトオルは、この自分を投げ飛ばした輩を探し、タイマンを張り勝利し、格を取り戻そうとしていたのだ。こと、不良達は格という見えざる位を保持する為躍起になるわけで、それが喧嘩だったり、抗争だったりするわけだ。
2人を血濡れにしたトオル、他の数名達へ目を向ければ、全員が背筋を伸ばして緊張が走った。
「どんな事しても探さんかい!おどれら見つけれんかったらただじゃおかんぞ!いけやぁあああ!!」
トオルの咆哮じみた一喝が校舎に響き、正座させられたヤンキー達は立ち上がった。これはまずい、さっさと見つけないと、そうして屋上の出口へダッシュで向かった矢先の事だった。
「おい大変や!倉橋やられたらしいど!!」
それとは逆に、校舎から屋上に出てきたまた別のヤンキーが、息を切らして声をあげたのだった。