上方と下方
「中井真也です、よろしくお願いします」
電車で絡まれてからしばらく、僕は転校先の学校に到着して、クラスメイトに挨拶をしていた。挨拶は最低限に、僕はさっさと指定された席へ座る。
クラスメイト達は、それだけ?だの、もっと他にないの?だのと好き放題呟きが聞こえたが、転校初日から目立つ気も無ければ、中心的なグループに媚びを売る気も無い。
友人も作る気はない、このまま風景の一部として目立たない様に生きようとしていた。
「えー、キミらもここらで育った子やから、知っとる思うけど、絶対に南側には!下方には行かんように!下方で事件巻き込まれても自業自得やからな!ええな!」
自己紹介から、ホームルームも終わる中で、クラスの担任の中場先生がそう言った。結構声が大きい、壮年の禿げた先生だ。担当教科は現文らしい。
さて、朝から色々あったが、まず何から説明すべきかな。
まず、僕が引っ越して来たこの町の名前からか。
名前は『英和田町』という。
ただし『町』にしては些か広すぎるので『街』という方が適切かもしれない。南側は海に隣接し、昔からある港と工場による海浜工業地区、それらと共に今でも残る取り残されたかのような古めかしい街並み。
そして北側は開発計画により整備された綺麗な街並み、繁華街に私立学校と、まだまだ開発が続いている。まださらに北側には、大きな開発が進んでいるらしい。
それを真横に両断して通るのが、私鉄英和田線だ。さながらそれは、鉄道により作られたベルリンの壁とでも言うべきか、その英和田線を境に、くっきりと街の姿は変わるらしい。
が……それは朝の電車で何となく理解した。あの時、誰も居なかった車両を境に、前後で客が違ったから。
しかし……あの10年は留年したようなおっさん学生は何者だったのだろうか、眠たかったし、夢だったのかと考えていると。
「ああそうや、中井くん、ちょい、キミ今から校長室に来てくれるかぁ?」
中場先生が、僕に校長室へ来る様呼び出した。
僕が通うことになったこの私立中学、私立緑陽中学校は、土地開発の際に建てられた学校で歴史は比較的新しい方の学校となる。中高一貫の学校で、正式名称は『私立緑陽学園附属中学校』という。
進学校としても中々らしく、県外、地元問わずに有名大学へ送り込んでいると聞く。まぁ、そんな事自分にはどうでもいいのだが。
「失礼します」
校長室へ通された僕は、この学園の中等部の校長と面を通した。これと言った特徴は無い、人の良さそうなお爺さん、多分別の学校にも歴代校長として同じ顔がありそうな人だった。
「あぁ来たね中井くん、どうぞ」
「失礼します」
言われるがままに、ソファに座る。校長の隣へ中場先生も座って、校長は一枚の紙面を取り出した。
「ごめんね中井くん、転校初日に呼び出して……少し尋ねたい事があったの」
「進路希望、ですか?」
校長先生は、いきなり呼び出して悪いと言う。少しばかり理由は勘づいていた、進路希望を転入前に書かされたのだ。しかし、進路先はまだ決まってないので『就職』とだけ書いておいたからだ。
何しろ……小学校は碌に通ってなくて、何をしたいのかとか、何ができるのか学習してなかったから。
「あ、いや違うんよ……キミのお住まい、住所なんやけど……これ、下方よねぇ?」
「はい?えぇ、まぁ……港の倉庫街ですけど」
しかし、校長から尋ねられたのは、進路希望とかでは無く住所だった。僕の居住地、まだそこに行ってないが、僕がこれから住む場所は港にあった。そうだと聞いた校長先生と中場先生は顔を見合わせてから頷き、校長先生は話し始める。
「とりあえず……中井くん、うちの寮か上方のマンションに移らんか?」
「何故に?」
いきなり、こちら側の寮かマンションに移る様に提案されて、僕は理由を尋ねた。それに対して中場先生はすんなりと答えてくれた。
「いやね、中井くんは他所から来たから知らんみたいやけど……下方、英和田の南側って言うのはあんまり治安良くないんよ」
そうなのかと、僕は聞き流しかけて、朝の不良を思い出した。
「それこそヤンキーや暴走族屯しとって、高校生とヤーさんが繋がっとる事もあったりしてなぁ……こっちの生徒が下方で事件に巻き込まれても、行く事自体が自業自得って事にしとるんよ」
「それでさっき中場先生が……」
「どやろか?確かキミ、親御さんの遺産で学費支払った言うし……余裕あるんやったら考えても……」
身を案じた提案だった、心配してくれているのは分かる。だが僕は……。
「一応、港で働く親戚に勧められましたので」
「あぁ、親戚がおるんやね……」
「それやったら……まぁ、大丈夫でしょか?」
親戚に勧められたからと、親戚が居るのを理由に丁重にお断りした。それならばまだ大丈夫なのだろうかと、校長先生と中場先生は、腑に落ちないが頷きつつ、中場先生はテーブルのメモ用紙を一枚取ると、何やら書き出した。
「港の奥の住まいやったら歩くの難儀やろ、余裕あるんやったらこれ、タクシー使いや?英和田タクシーな、個人はボラれるから乗ったらあかんよ?」
タクシーの電話番号をわざわざ渡して来たのだ。自転車通学なり、歩く予定だったが、そうも行かないらしい。
「自転車通学とかは……」
「あかん、狩られるで自分、特に上方の制服なんて着て下方彷徨くなんて自殺行為やからな」
何なのだ、下方とは……そう思いながら僕は、英和田タクシーの番号を書かれたメモを受け取るのだった。
ーー英和田町『下方』英和田第二中学ーー
校舎裏、そこは不良学生の溜まり場。もしくは体育館裏なり、技術実習棟の辺りが大体彼らが、タバコを吹かしたりする場所である。そして、例に漏れずこの場にも、2人が朝から紫煙を燻らせていた。
片方は剃りを入れた坊主に、片方は黒のリーゼント。現代では化石と呼ばれても差し支えなかろう髪型に、短ラン、裏ボタン、カラー付き裏地。
それが……英和田町が南側『下方』の不良達の伝統的な出立ちである。まるでここだけ、時代に取り残されている様な、時が止まったかの様な姿をしていた。
「つーか聞いたかよ、朝の話……トオルちゃんが負けたって」
「アホぬかせ、信じられるか、あのトオルちゃんやぞ?機動隊と喧嘩でやり合える輩を負かすヤツが居るかい」
黒のリーゼントの話を、剃り込み坊主が馬鹿らしいと否定した。朝から英和田町の下方、およそ不良と分類される輩達の間で、その話題で持ちきりだった。
英和田町には……幾つか決まりがある。知っていなかったでは済まされない決まりがある。
例えば……上方のガクセーが下方を彷徨く事。それはもう『どうぞカツアゲしてください』という意味である。たとえ被害が出ても『お前が悪い』と言われるのがオチだ。
次に、暴走族に属さぬ者が、普通二輪以上に類する物に跨るな。もし無改造で跨ろう者なら、離れた瞬間ばらされるなり盗まれるからだ。
他には、英和田線で一.二両目は上方の人間が、四.五両目は下方の人間が乗れ。三両目には決して踏み入るべからず。
この、英和田線の三両目に関する話。何故、この車両に乗り込んではいけないのかと言うと……。
『専用車両』となっているからだ。
誰か富豪がその車両を買ったわけではない、ある不良が恐怖でその車両を独占しているからだ。
『英和田町のトオル』と呼ばれている高校生が、その車両を独占している。
下方でもトップクラスのバカ高かつ、不良達の巣窟、英和田水産高校の三年生であり。18歳らしいが、顔立ちが明らかに学生のものではない、老けた強面顔であり。噂では10回留年して実は28歳では?とまで言われている。
身長192cm.、体重100kg近くの巨漢である。
暴れ出したら手をつけられず、警察がやれ五十人かかりでやっと逮捕できたとか。
ヤクザの事務所にカチこんで喧嘩したとか。
機動隊とやりあったとか。
少年院の看守を殴り殺したとか。
色々と噂がついて回る輩であり、現在英和田町下方で、不良達を集めて喧嘩をしたら頂点に立つだろう不良となっている。
「トオルちゃんがやられた言うんやったら、方々の先輩らが黙っとらんやろ、それこそトオルちゃん倒したヤツぅ狩りに出たり……トオルちゃんとやり合う輩とか出てくるでぇ?」
「はんてぃんぐ、っちゅうわけやのぉ……て言うか遅いのぉ!タニのドアホ!クソでもしとんのかぇ!」
フィルターギリギリまで吸い切ったタバコを地面に叩きつけ、剃り込み坊主が荒々しく叫ぶ。それと同時に。
「ワリィ!ちょっとえらいことになって!」
短ランに金のリーゼントの少年が、小走りに校舎裏へ駆けてきた。
「遅いどタニ!ワレェ糞でも垂れとったんけ!」
「おはようさん、どないしたんや、ほーむるうむにでも律儀に出とったんか?」
タニと呼ばれたこのヤンキー、名前は谷村正志という。リーゼントは中々にビシッと決まってはいるが、少しばかり小柄な少年は、他の仲間から何をしていたのだと煽られた。
「いやまぁ、糞はしてないんやけど……あれや、トオルちゃんやられた言う話」
そんな遅刻者たる谷村が、今話題となっているトオルちゃん敗北事件を切り出して、剃り込み坊主が声を上げる。
「遅いわアホ、日ぃ跨ぐくらい遅いわタニぃ!今、わしら話しとったんやその事!」
「まぁ嘘やろ?」
二人がデマだあり得ないと言った矢先。
「あぁそれホンマやで、裏とったさかい」
タニの返しに2人はずっこけた。
「いやいやいやいや!ホンマか!?ホンマかおぇえ!」
「お前それ冗談で済まされんど!?」
剃り込みも黒リーゼントも、タニのまるで新喜劇の様な返しに2人は慌てた。先程まではタチの悪い噂、でもだろうと思っていたのだ。
しかしタニが、谷村正志が『ホンマや』と言ったら一気に信憑性が上がる。何故なら谷村正志は、英和田町下方の、不良、ヤンキー事情に一番詳しい『情報屋』だからだ。
「英和田水産がそれで持ちきりになっとったわ、んで、今トオルちゃん暴れとるんやって、下の奴らに探せって命じとるみたいやわ」
「えっげつなぁ……で、タニ?実際やられた言う話は、どんな感じやねん?」
黒リーゼントがタニに急かす、事の次第はどうなのかと。
「おう、何でも朝の東英和田……トオルちゃんが乗り降りする駅あるやろ、そこから英和田の間に河川あるやんか……そこで窓からッポーン!!らしいで」
「窓からて……えぇ?トオルちゃんが?トオルちゃんが投げたんやなくて?」
「おお、窓ガラスも割れとったし、電車止められとったわ……でな、こっからは俺も信じられへんのやけど……上方のガクセーらしいんや、投げたの」
その話に剃り込みと黒リーゼントは目を合わせて……。
「おいタニ、幾ら何でも……」
「自分、ヤニだけやのうてシャブも手ぇ出したんか?」
心配した顔でタニを見た、まさかタバコどころか麻薬にまで手を出したのかと。タニは流石に突っ込んだ。
「打っとらんわ!!俺かて、そら無いわ思うたわ……けどなぁ、投げたやつの制服……ブレザー着とったらしいんや」
そしてタニは、トオルちゃんを投げた犯人が、上方の学生であると断言できる理由を解いた。
「下方の中学高校はじぇーんぶ学ランやろ、ブレザーの学校は無い……ブレザーなんて制服採用しとるんは上方の私立くらいやで」
「じゃあ、上方のボンボンガクセーに投げられたっちゅう話か、信じられんわぁ〜」
「こら動くのう、英和田の不良達……」
タニの話を聞いて、納得してこれからの英和田町が不良の勢力図が変わると呟く剃り込み坊主。その時、剃り込み坊主の携帯電話が鳴った。スライドさせて画面を覗き、剃り込み坊主はボタンを押して確認し、立ち上がった。
「先輩らが招集かけて来た、単車乗っていつもの場所やて」
「マジか、総長ヤル気やな……タニ、行こか?」
「うわぁあ……殺されるで」
先輩からの招集メールに黒リーゼントも立ち上がり、谷村も嫌々ながら立ち上がった。つまりは開戦の狼煙を上げる気だ、トオルちゃんか、はたまたそのガクセーを狩る気なのだろう。
自分達は兵隊として戦う事になる。というかいよいよ遠くからも、バイクのエンジン音やラッパまでが聞こえて来て、本当の事なのだと谷村は理解した。
そして、これより谷村正志が、件の学生と出会い、異界に消え行くその日まで関係を持つなどとは、全く思いもしなかった。