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「殺せ。」
ヴァリシアの冷たい声が闘技場を凍らせた。
僕の前に灰色の拳が現れた。
巨体に似合わず素早い魔獣だ。
避けられない。
真正面から巨拳を食らう。
体がボールのように跳ね壁にぶち当たる。
ヴァリシアは少年の無残な姿を見て笑みを湛えた。
例え子供であろうとも容赦はしない。戦場で得た教訓だ。
何より己の邪魔になるものは何であろうと許容できない性分であった。
観客のざわめきが耳を不快にさせる。
早くここを去ろう。
「おい!何だアイツ...!」
観客のざわめきが興奮するような歓声に変わりつつあった。
何事だ...。
ヴァリシアは少年がぶつかった壁に視線を向けた。
「なん、だと...。」
己の眼を疑わずには居られなかった。
体中が痛む。
こんな馬鹿力今まで味わった事が無い。
でもまだ大丈夫のようだ。
何とか立ち上がる。
どうにかして逃げないと。
観客の歓声が鳴り響いた。
よくわからないけどみんな楽しそうだ。
ふとヴァリシアの方を見上げた。
瞬間、自分が犯した間違いに気づいた。
死んだフリをしてれば良かったんだ...。
ヴァリシアの瞳を見ているのが怖くなり、眼をそらした。
先ほどの苛烈な瞳とは打って変わり、何者も静止させる冷気を感じた。
「ギギサナス。」
ヴァリシアに呼ばれた魔獣がビクリとして上を見上げた。
「私は殺せと言ったぞ。」
魔獣はヴァリシアと僕を見比べた。
そして困惑したような鳴き声をヴァリシアに向けた。
「そうか。そうだな。」
ひどく優しい声音で魔獣に語りかけた。
「お前は強い。お前の手に掛かって死なぬ奴がさぞ珍しいのだろう...。」
その通りだと言わんばかりに魔獣が鳴き声を上げる。
「ああ。強きギギサナスよ...。ういヤツめ。だが、私は何と言った?」
魔獣が氷付くかのように静止した。
「殺せ。ヤツを殺せ。ヤツを殺し胴を捻り臓腑を啜れ。お前はもっと強くなる。ギギサナス...。あやつを殺せ!!!!」
魔獣が猛り狂った雄叫びを上げ僕の方へ突進してきた。
単純な突進。
これなら避けることができる。
大きく左へ跳んだ。
魔獣は此方に構う事無くそのまま壁に衝突した。
壁にヒビが入る。
そのヒビは止まる事なく観客席の方へ進んでいく。
魔獣が雄叫びを上げた。
観客席が割れ、崩壊していく。
歓声は悲鳴に変わり、皆競うように席を立ち始めた。
「ヴァリシア様お止めください!」
「黙れ、下郎!!命が惜しくば貴様も立ち去れ!」
沢山の声と瓦礫の音が混じり合う。
混沌とした音が周囲に満ちる。
しかし、僕はどれにも気を取られる訳にはいかない。
目の前には何よりも恐ろしい存在が居る。
魔獣が拳を振り上げた。
大振りの拳。
これも簡単に避けられる。
どうやらコイツは昂りすぎて我を忘れているのようだ。
咄嗟に近くに落ちていた剣を拾い上げる。
「これなら僕でも避けられるよ!」
拳を避け魔獣の脇腹に剣を突き立てる。
しかし魔獣の肉体は剣を受け付けることはなかった。
魔獣の拳が地面を打つ。
割れる音が響く。
地面が陥没し、軽い地割れが生じた。
「...これは、全部避けないとダメだ...」
地面に剣を捨てた。
目に見えて先ほどよりも威力が増している。
一発当たろうものなら恐ろしい事になる。
どうすれば良いんだ...。
僕も逃げたい...。
観客の方を見る。
沢山の人間が我が身大事さに出口へ急いで他人を踏みつけている。
「あっちは、ダメだな...」
「おい!バケモンの坊主!」
声のする方を見ると大きな男が手を振っていた。
「受けとれい!」
拳大の袋が此方に投げられた。
男から受け取った袋を開けると中には小麦粉が詰まっていた。
「よう兄ちゃん上手く使えよ!生きてたらまた合おうぜ!」
男が大きな声を上げて去って行った。
「小麦粉でコイツを倒せってことかな...。」
血走った眼がこちらを食い入るように見ている。
「どうしろっていうんだろう...。」
刹那、汗が引いた。
体が恐怖を訴えていた。
これは、マズイ。
しかしどうすることもできなった。
灰色の拳が体の芯を完璧に捉えた。
聞きたく無い音が体の中から頭へ流れ込む。
地面を転がりながら壁に激突した。
視界が明滅するほどのダメージ。
これは動けない。
壁に寄りかかったまま一歩も動けなかった。
拳が地面を踏む音がする。
のしりのしり、と魔獣が近づいて来た。
思わず惚れ惚れするような堂々とした歩みだ。
しかしこれ以上痛めつけられるのはゴメンだ。
「あっちへ...ゴホッ!こっちに、来るな...。」
弱々しい言葉しか出ない。
魔獣はそんな言葉に耳を貸すはずがなかった。
巨大な両手が僕を掬い上げた。
まるで何かに捧げるかのように天に掲げる。
見せつけているんだ。
ヴァリシアに褒めて貰う為に...。
「よくやったぞ。ギギサナス。」
満足した声が僕の耳に届いてきた。
「やれ。」
冷たい声が響く。
胸と腰を掴まれる。
ゆっくりと力を加えられていく。
「やめ、ろ...」
どうすることもできないと知りながら、右手を振り回すと偶然魔獣の手に触れた。
魔獣の悲鳴が響き渡る。
なぜか、僕は魔獣の手から解放され、地面に落ちた。
魔獣を見るとその場で拳を地面に叩きつけている。
よく見るとその拳の一部黒く焼け焦げていた。
どうやらそこは僕が触れた部分のようだった。
自分の手を見ると白い粉だらけになっている。
「これのお陰なのか...?」
どうやら袋に入っていたものは小麦粉ではなかったようだ。
そうとわかれば、地面に落ちていた袋を拾い上げた。
「それっ!」
袋ごと魔獣に投げつけた。
袋は見事に当たりその体に粉を撒き散らした。
先ほどとは比べ物にならない悲鳴を魔獣が上げた。
体中から煙を上げ、地面をのたうち回っている。
それを見ている事しかできなかった。
やがて、魔獣は動かなくなった。
魔獣に近づき手を触れる。
もう動かない。
「...ごめんよ。」
僕ももう動けなかった。
その場に仰向けになって倒れ込む。
青い月が今日はよく見える。
月の中に赤い髪をした褐色の肌の女が入ってきた。
月の光を霞ませるほど苛烈な美しさを湛えていた。
僕の頭のすぐ上に立つヴァリシア。
その瞳は怒りで彩られていた。
その瞳が僕を捉えていた。
紫色の口紅を塗った唇が動く。
「死ね。」
女のサンダルが僕の頭を硬い地面ごと踏み抜いた。
地面が割れていく。
僕が聞いた最後の言葉は絶世の美女が放った言葉だった。