5.死神伝説、再び
注:モブ視点という初の試み。
3話でのクレアの発言、実際にはこういうことなのよ。というお話です。
ここに、一人の男がいる。
彼の名はブラン・ビエール。料理人見習いだ。
十五歳から一流の料理人を目指し、現在二十一歳。
いつかこの王都に自分の料理店を出すことを夢見て、日々修行に励んでいる。
生まれ故郷であるカナールの街で三年、王都に上京し小料理屋で二年、そして今はこの"中央"内の庁舎にある食堂で、下積みを兼ねて働いていた。
食堂と言っても、ここはそこいらの街役場のソレとはわけが違う。
何せ軍部の上層部や、魔法研究所のエリートたちが毎日来るのだ。国の中枢を支える彼らに気持ち良く仕事をしてもらうため、一流の料理人を集め、一流の料理を提供している……高級店顔負けの食堂である。
多彩な経歴を持つ諸先輩方に教えを請うべく、ブランは厳しい採用試験に臨み、見事合格。一年前からここで働いているというわけだ。
皿洗いに食材の仕入れ、仕込み、調理道具の手入れ……まだまだ下っ端の彼は、調理意外にも任される仕事が多い。朝から晩まで動きっぱなしだ。
そんな過酷な労働環境の中、心が折れそうになることも多々あった。
しかし。
彼は最近、仕事が楽しくて堪らなかった。
何故なら……
「すみませーん! 豚の生姜焼き定食、デザート付きでお願いしまーす♡」
その声が聞こえた瞬間、皿洗いをしていたブランの手が止まる。
来た。彼女だ。エリシア・エヴァンシスカちゃん。
ピーチブラウンの艶やかな髪。ルビーのように赤い大きな瞳。愛想良く、いつもにこにこ笑っている可愛らしい顔立ち。
彼女は、二ヶ月ほど前からこの食堂によく顔を見せるようになった。治安調査員として地方に派遣されていたらしいが、今は"中央"勤めなのだそう。
嗚呼、今日も今日とて、めちゃくちゃ可愛い……
……と。
ブランは、注文カウンターの向こう側に立つエリスを眺め、密かに鼓動を速める。
そう。彼は。
エリスに……淡い恋心を抱いているのだ。
初めて見た時から目が離せなかった。
この食堂を利用する人間の中でも特に若いので、それだけでも目立つのだが……とにかく、可愛い。その一言に尽きる。
見た目の可愛さもさる事ながら、特に胸を打たれたのがその食べっぷり。彼女は、本当に美味しそうに料理を食べる。時折うっとりと頬を押さえながら、米粒一つ残さず綺麗に食べ切る。
その上、食器を返却する時にも、わざわざ厨房に「ごちそうさま」と礼儀正しく声をかけてくれるのだ。
エリスに出会ってから、ブランは彼女に会えるこの昼休みを楽しみに仕事をしていた。
そして今日も、待ちに待ったその時間が訪れた。
生姜焼き定食の注文を受け、厨房の料理人たちが調理と盛り付けにテキパキと動き出す。
「じ、自分が出します!」
ブランはここぞとばかりに出来上がった料理をお盆に乗せ、カウンターで待つエリスへと受け渡した。
「はい! 生姜焼き定食お待ち! 今日のデザートはプリンだよ」
「ありがとう」
エリスはにっこり笑い、それを受け取る。
ただ、それだけのやり取り。
注文を受けて、料理を受け渡す。
いつもそう。だから、名前はおろか、きっと顔すら覚えてもらえていない。
でも、今日は……
「……あの!」
お盆を持ち、カウンターを去ろうとするエリスに。
ブランは、小さな紙袋を差し出して、
「こ、これ。つまらないものだけど、君のために作った。良かったら食べて」
なけなしの勇気を振り絞り、同僚に聞かれないよう声を潜め、そう言った。
袋の中身は、クッキーだ。昨夜、今日の分の仕込みを終えた後、一人でこっそり作ったもの。
「いつもデザート頼むから、甘いもの好きなのかなと思って……口に合うといいんだけど」
そう付け加え、彼女の反応をドキドキしながら待つと。
エリスは、ぱちくりと瞬きした後、にぱっと笑って、
「ありがとう! 甘いもの大好きなの。遠慮なくもらうね」
嬉しそうに、それを受け取った。
それだけでもう、ブランは天にも登るような気持ちになる。
そのまま、食堂のテーブル席へと向かうエリスの背中を、ぽ〜っと見送ってから。
「…………っし!!」
小さく、ガッツポーズをした。
* * *
──翌日。
ブランは同じように、食堂を訪れたエリスにクッキー入りの袋を手渡した。
昨日のはプレーンだったが、今日のはチョコチップ味だ。
渡されたエリスは、一瞬驚いた顔をしたが、
「昨日もらったやつ、美味しかったよ。ありがとう。また食べさせてもらうね」
そう言って、カウンターから去って行った。
『美味しかった』。
その言葉は、料理人にとって何よりの賛辞だ。
パティシエを目指しているわけではないから、もちろんお菓子は専門外。だが、甘いもの好きな彼女の為ならと、デザート担当のシェフに作り方を習い、自らも研究した。
分量、行程、生地を寝かせる時間の長さから、オーブンでの焼き加減まで……教わった知識と、料理人として身につけた技術と勘を総動員させて、最高のクッキーに仕上げた。
それを、美味しいと言ってもらえた。そして今日も、受け取ってもらえた。
嗚呼、嬉しい……これで、午後の仕事も頑張れる。
これからもこうして、甘いものをプレゼントして、少しずつ接点を持とう。
遅れてしまったが、明日は自分の名前を伝えよう。カウンターではあまりゆっくり話せないから……そうだな、手紙にして渡すのがいいか。うん、そうしよう。
そうして、ブランは翌日もエリスにクッキーをプレゼントした。
『僕の名前はブラン・ビエールです。いつも素敵な笑顔をありがとう』
というメッセージカードを添えて。
そのカードが同封されていることを知らずに、エリスはまた、笑顔でその袋を受け取った。
* * *
ブランがエリスにクッキーを渡し始めて、四日目。
エリスの注文した定食をブランが提供し、こっそりクッキーを渡す。
前日までと同じやり取りかに思われたが……
「あの」
クッキーを受け取った後。
いつもならすぐにテーブルへと去って行くエリスが、その日はカウンターに留まり、
「これ……いつものお礼」
そう言って。
ポケットから小さな袋を取り出し、ブランに渡した。
予想だにしなかった展開に、彼は目を丸くし、
「お……俺に……?」
震える指で自分を指すと、エリスがこくんと頷く。
ブランはそのまま、受け取った袋の中身を改めると……
クッキーが、五枚ほど入っていた。
……クッキーのお礼に、クッキー?
と、普通なら思うところであろうが、ブランは彼女からお返しがもらえたという事実だけで、感動に打ち震えていた。
しかも、これって、もしかして……
「……君が、作ってくれたのか…?」
その問いかけに、しかしエリスは首を横に振り、
「ううん。作ったのは、あたしの……ど、同居人」
「同居人……?」
「そう。毎日もらってばかりで申し訳ないからって、作って寄越したの。あなたにもらったクッキー、同居人も一緒に食べてたから」
「そ、そうか……ありがとう。大事に食べるよ」
ブランが礼を述べると。
エリスは「それじゃあ」と短く言って、カウンターを後にした。
その後ろ姿を、ブランは呆然と見つめ……嬉しさのあまり、しばらくそこから動けなかった。
──その日の、仕事終わり。
ブランは一人きりになった厨房で、エリスから受け取ったクッキーを、緊張した面持ちで見つめていた。
作ったのは彼女の同居人らしいが……初めての、エリスからのもらいものだ。
「……いただきます」
ぎゅっと目を閉じ、ありがたさを噛み締めてから。
サクッ、と齧ってみた。
すると。
「………………な……んだ、コレ……」
わなわなと震え出す、ブランの身体。
美味い。え、美味すぎる。
なんだ、この口に入れた瞬間にほどけるような、ほろほろとした食感は。
バターと小麦粉のバランスが絶妙だ。甘さもくどくなく上品。焼き加減も完璧。
それに、この香り……紅茶か何か入れているのか? 不思議な風味が鼻に抜け、それがまたアクセントになっている。
これ……本当にシロウトが作ったモノなのか……?
下手すりゃ俺のより美味いんじゃ……
エリスちゃんの同居人て……一体、何者なんだ……?
……と、エリスからのお礼を堪能するつもりが、料理人として普通にショックを受けることになってしまい。
ブランは複雑な気持ちを抱えながら、翌日渡す分のクッキーを、いつもより力を入れて作り始めた。
* * *
次の日も、そのまた次の日も。
食堂でのクッキー交換は続いた。
ブランも持ち得る技術を全て使い、クッキーをこさえているのだが……
それでも、エリスが持参する『同居人』の味の方が、明らかに上だった。
「なぁ、君んちの同居人さんて……どんな人なんだ?」
最初にクッキーを渡した日から一週間。
ブランはクッキーを受け取りながら、ついにその疑問をぶつけてみた。
エリスは少しビクッとしてから、「えぇと…」と言葉を選ぶようにして、
「……美味しいご飯を作って、待っててくれる人?」
そう答えた。
ブランはますます困惑する。
つまり、『同居人』が料理担当なのか?
そうなると……やはりお菓子作りが趣味の女の子か、スイーツ店で働いている人物の可能性が高いな……
「そ、そうなんだ……いや、このクッキーすげー美味いから、どんな人が作っているのかなぁと思って……」
あはは……と乾いた声で笑うブラン。
エリスはそれ以上会話を続けるつもりがないらしく、「それじゃあ」とだけ言って去って行った。
くそっ。思い切って「どんな仕事してる人?」って聞いてしまえばよかった。
そうしたら、男か女かの見当も付きやすかったのに……
いずれにせよ、これほど美味いクッキーが作れるなんて、只者ではないはず。謎だ。まったくもって、謎。
はぁ……と、ため息をついて。
彼は、エリスから受け取った紙袋の中身を何気なく見る……と。
「……こっ、これは……!」
初めて、クッキー以外のものが同封されていた。
メッセージカードだ。ブランは胸を高鳴らせながらその内容を確認する。
『日没頃、中央の正門に来てください。待っています』
……などという言葉が、流麗な字で記されているではないか。
間違いない。エリスからの呼び出しだ。
まじか。え、どうしよう!
わざわざ外に呼び出すってことは、ここではできないような話をしたいってことだよな?
それって、もしかして……もしかしちゃったりなんかしちゃったりして!!
ブランは鼻息を荒くしながら、完全に心ここに在らずな状態で、午後の仕事をこなした。
──日没間際。
買い出しと称して厨房を抜け出し、ブランはメッセージカードで指定された"中央"の巨大な正門の前へとやって来た。
「……エリスちゃんは……?」
街が美しい夕焼けに染まる中。"中央"での仕事を終え、帰途に着く人の群れが流れていく。
エリスは一体いつ現れるのかと、ブランがそわそわしながら辺りを見回している──と。
「──お疲れさまです」
そんな声が、すぐ耳元でして。
ブランはビクッ!と震えながら振り返る。
い、いつの間に背後に人が……?!
と、振り返ったその先にいたのは……
背の高い男だった。しかも、かなりの美形。同性のブランですら思わず息を飲むほどに整った、美しい顔立ちをしていた。
その美青年が、切れ長の瞳を細めにっこりと笑って、
「ブラン・ビエールさん、ですね。お待ちしていました」
なんてことを言うので。
ブランは訳がわからず、「へ?」と間の抜けた声を上げる。
目の前の男は、なおも微笑み、
「エリスがいつもお世話になっています。あなたが作ってくださるクッキー、私も毎日食べさせていただいていますよ。さすが"中央"の料理人さん。お菓子作りもお上手ですね」
そう、言った。
それでようやく、ブランは理解した。
この男が、エリスの『同居人』で……自分をここに呼び出した張本人なのだということを。
「お……俺に何の用だ……?」
思わず後退りしながらブランが尋ねると、男は「あはは」と笑って、
「いえ、ただの"ご挨拶"ですよ。私が作ったお返し……召し上がっていただけましたか?」
「お返し、って……あんたが作ったのか。あのクッキー」
「えぇ、そうです。どうでしたか? お味の方は」
その問いを、ブランは挑発と受け取り、奥歯を軋ませながら、
「……なんだよ、俺のより美味いだろうって言いたいのか?」
そう返す。
くそ……同居人ってことはこいつ、エリスちゃんの彼氏か?
いけ好かねぇ野郎だ。わざわざこんな……料理人のプライドをへし折るような真似しやがって。
しかし『同居人』の男は静かに首を横に振り、
「いいえ、そうではありません。確かに美味しく作ったつもりではありますが……何か、感じませんでしたか?」
小首を傾げながら、そんなことを聞いてくるので。
ブランは目を丸くし、「は?」と聞き返す。
「何か、って……何だよ」
「普通のクッキーと異なる点、ありませんでしたか? 料理人のあなたなら、わかっていただけると思ったのですが」
そう言われて、ブランは今一度その味を思い出す。
バターの量が絶妙で、上品な甘さで、焼き加減も完璧。それに……
……そうだ。言われてみれば。
「……少し、不思議な香りがしたな。紅茶とか、香辛料みたいな……」
「そう、それです。何だかわかりますか?」
人さし指を立てながら、楽しいクイズでもしているかのような雰囲気で尋ねてくる。
ブランは少しイラついた表情で見返し、
「知らねーよ。ハーブか何かか?」
吐き捨てるように言うと、『同居人』の男は「おぉっ」と感嘆の声を上げ、
「さすが。そうです、ハーブの一種です。正解をお教えしましょうか?」
「……なんでもいいから、早くしてくれよ」
ブランにはもう、この状況の意味がわからなかった。
この男がエリスの彼氏だとして、ブランに釘を刺しに来たと言うのならわかる。ひとの彼女にちょっかい出すなと、怒鳴られたり殴られたりした方がまだ納得がいく。
しかしこの男は、自分がエリスにクッキーを贈っていることを知りながら、わざわざお返しを作って寄越した挙句、こうして呼び出し、意味不明なクイズを出題しているのだ。
何なんだ、コイツ……顔は良くても頭は弱いのか?
エリスちゃんがもし顔だけでこいつと付き合っているのなら、俺にもチャンスがあるかも。いや、むしろこんな男とは引き離してやった方がいい。
そんなことを考えながら、ブランが睨み付けていると……
──くすっ。
と、その男が笑って。
「……私があのクッキーに入れたのは……『ベルタリス』というハーブのエキスです。ご存知ですか? その植物の名を」
その言葉を聞いた瞬間。
ブランの身体が……ガクガクと震え出す。
『ベルタリス』。
成長すると、紫色の美しい花を咲かせる植物。最大の特徴として挙げられるのは、なんと言っても……
その葉にある、猛毒。
『同居人』の男は続ける。
「『ベルタリス』の致死量は、わずか一〇グラム。しかも代謝されることなく、生涯その毒が体内に蓄積されていきます。それを、あなたに差し上げたクッキーに、毎日三グラムずつ練りこみました。今日で、クッキーをお返しし始めて四日目。なので……今日お渡しした分を口にすると死んでしまいますよと、お伝えしたくて」
などという、とんでもないセリフを。
男は、にこやかに笑いながら、穏やかな口調で言った。
毎日、三グラム……?
ということは、既に……
俺の体内には、九グラムの毒が、蓄積されて……
あと一グラムでも口にしたら……
死…………
ブランは絶望と恐怖で吐きそうになりながら、やっとの思いでこう返す。
「な…………何故、そんなことを……」
『同居人』の男は、少し困ったように微笑んで、
「いやだなぁ、決まっているじゃないですか。害虫駆除ですよ。エリスにたかる虫は、漏れなく抹殺する。それが、私の使命なので」
「が、害虫……」
「そうですよ。薄汚い虫ケラが、愚かにも私の大切な花に触れようとするならば、それは殺すしかありません。ちなみに……私は既に、王都三番街にあるあなたのご自宅も、カナールにあるご実家の場所も、全て把握済みです。そのクッキーを口にせずとも、あなたに残り一グラムの『ベルタリス』を盛ることなど造作もないこと。そのことをよーくご理解いただき、今後の身の振り方を考えていただければと、"ご挨拶"に伺った次第です」
こ…………殺される。
どういうわけか、自宅も、実家の場所まで知られている。
エリスちゃんに惚れてしまったばっかりに、こんな……
死神のような男に、目を付けられてしまった。
ブランはガクッと膝から崩れ落ちた。
目の端からは涙が伝う。
それを見下ろし、『同居人』はにっこり微笑むと。
しゃがみ込んで、ブランの耳元に口を寄せ……
「………ふふ。すみません、冗談です。びっくりしましたか?」
と。
戯けたように、囁いた。
ブランが「へ……」と、呆けた顔で彼を見つめると、
「差し上げたクッキーに入れていたのは、この『サティリス』というハーブです。料理の香り付けにも使われるので、ご存知でしょう?」
言いながら、『同居人』は懐から取り出した小さな葉をブランに差し出す。
恐る恐る匂いを嗅ぐと……確かにそれは、無毒な『サティリス』の香りで、クッキーから感じたのと同じ匂いだった。
「じゃあ、俺の身体に……毒は、ないのか……?」
「ええ、ありませんよ。何せエリスは、"中央"の食堂で食べる昼食をとても楽しみにしています。だから、料理人であるあなたのことは殺しません。殺さない代わりに、ちょっとだけ脅かしてみたのです。よかったですね、料理人で。そうでもなければ……本物の『ベルタリス』を使っていたところです」
安心したのも束の間、最後の一言でブランはまた震え上がる。
『同居人』の男は、ブランの顎の下を、人さし指でつぅ…っと撫でると、
「しかし……彼女に食事を提供する料理人が、こんなハーブの味も判別できない人間だとは。正直、落胆しました。色恋にうつつを抜かす暇があるのなら、もっとご自身の知見と技術を磨いてはいかがですか?
次またエリスに色目を使うようなことをしたら……そうですね。まずは腕を、それから舌を、順番に斬り落としてさしあげます。あなたが真の料理人ならば、命を奪われるよりも辛いでしょう?」
にこっ、と。
本当に人の良さそうな笑みを浮かべながら、見せつけるようにして腰の剣に手を添え、
「私はいつでも、あなたを見ていますよ。これからもエリスに、美味しい昼食を……よろしくお願いしますね」
そう、言った。
笑っているはずなのに。睨まれているよりも恐怖を感じるのは何故なのか。
戦闘経験がまったくないブランだったが、本能が訴えかけてくる。
こいつは、敵に回してはいけない相手だ、と……
ブランが、蛇に睨まれた蛙が如く全身を震わせ、動けずにいる……と。
「──何してんの? クレア」
そんな声が、横から降ってきて。
ブランは思わず、バッと顔を上げる。すると、そこに……
帰り支度を整えたエリスが、鞄を持って立っていた。
ブランが反応するより早く、クレアと呼ばれた『同居人』の男が立ち上がり、
「エリス。お疲れさまです。荷物、お持ちしますよ」
「ありがと。……あれ? この人……」
鞄を渡しながら、エリスは首を傾げブランを見つめる。
ブランはドキドキしながら見つめ返すが……数秒後、エリスは首を反対側に傾け、
「…………誰だっけ?」
そう言った。
瞬間、ブランの脳内に「ガーンッ!」という音がこだまする。
代わりにクレアが口を開き、
「ほら、食堂でいつもクッキーをくださる方ですよ」
「あぁ、やっぱり。なんとなくぼんやり、こんな顔だったような…って気がしたの。お昼休みはご飯のことしか頭にないから、正直覚えてなくて」
あ……あんなに毎日顔を付き合わせていたのに!?
あっけらかんと言われてしまい、ブランはさらにショックを受ける。
「で? その人とクレアが、なんでここにいんの? あんたが作ったクッキーなら、昼間渡したけど」
「いえ、ブランさんもお忙しいでしょうから、もうクッキーのやり取りはやめましょうとお話していたところです」
「ふーん。そう」
「エリスももう要らないでしょう? クッキーなら、私がいくらでも焼いてさしあげますから」
その言葉を聞くなり。
エリスはぽっと顔を赤らめ、目を逸らし、
「……うん、そうだね。クレアの作るクッキーが……一番美味しくて、好きだから」
パリーンッ!!
それが決定打だった。ブランの恋心と、料理人としてのプライドが、粉々に砕け散った。
クレアはにこっと微笑むと、
「そういうことなので。明日からクッキーの交換は無しにしましょう。ブランさん、厨房のお仕事……頑張ってくださいね」
そう言い残し。
死神のような男は、エリスの手を引いて、スタスタと去って行った……
残されたブランは。
「………………」
放心していた。
料理人を目指す中で、怒鳴られることも殴られることも多々あったが。
これほどまでに本気で恐怖し、命の危険を感じることは、人生において初めてであった。
失恋の痛みと、『いつでも殺せる』と脅された恐怖。
何よりも……
『色恋にうつつを抜かす暇があるのなら、もっとご自身の知見と技術を磨いてはいかがですか?』
先ほど突き付けられたその言葉が頭から離れず、ブランの心は屈辱に震えていた。
……くそっ。今に見てろよ。絶対、絶対に……
アルアビス一の料理人になってやる……!!
そう決意し、ブランはすぐさま厨房へと戻った。
──その後、ブランは脇目も振らず料理の腕と知識を磨き……
数年後、彼の開いた店が王都屈指の人気料理店になるのは、また別のお話。
一方、ブランを置いて自宅へと歩き始めた二人は……
「……怒ってる?」
手を繋いだまま、エリスが窺うように尋ねた。
それに、クレアは彼女を見つめ返し、
「何がです?」
「……あたしが、男の人からクッキー貰ってきたこと。怒ってるから……あの人に会って、もういらないって直接伝えたんでしょ?」
と、エリスが遠慮がちに言うので。
クレアは、優しく微笑みながら、
「私が貴女に対して怒るわけがないでしょう。美しい花に虫がたかる責任を、花に問うのはお門違いです。身の程を弁えず蜜にありつこうと寄って来る愚かな虫どもが悪いのですよ」
「……すごい言い草ね」
「花を護るのは所有者の義務です。それに、貴女はちゃんと男性から贈り物を受けたことを教えてくれたじゃないですか。後ろめたいことがない証拠です。嬉しかったですよ」
「所有者って……ひとをモノみたいに」
「違うのですか?」
ふと足を止め、
「エリスは、私のもの……ですよね?」
そう信じて疑わないという表情で、クレアが言うので。
エリスは、「う」と息を飲んでから、
「……まぁ……そう、だけど」
「なら、ちゃんと言ってください」
「……なんて?」
「わかるでしょう?」
そう返すクレアの瞳は、彼女から齎される言葉への期待に満ちていて……
「…………」
エリスは、目を伏せ、頬を赤らめながら。
「……心配しなくても、あたしは………クレアだけのものだよ……?」
彼の望む言葉を、口にした。
すると、クレアは「ぐっ」と苦しげに胸を押さえ、
「っふぅ……自分で言わせたセリフに、自分で死にそうになるとは……」
「馬鹿なの? ほんと」
「すみません。嬉しいお言葉をありがとうございます。いやぁ、さっきの彼に百回くらい聞かせてやりたいですね」
「まったく。お返しのクッキーなんて焼くから、なんとも思っていないのかと思ったら……しっかりヤキモチ妬いてたのね」
呆れたように肩をすくめるエリス。
クレアは……くすりと笑って、
「えぇ、そうですよ。これは、怒りではなく……嫉妬です」
そして、そのまま。
エリスの手をぐいっと引き、抱き寄せると、
「すぐに殺してやっても良かったのですが……貴女の昼食を提供する大切な人材だったので、精神攻撃に留めました。ちょうどよかったですよ、貴女の食事姿に惚れてしまう男がきっといるはずだと思っていたので。厨房内の男共に対する、良い牽制になりました。理性的な対処ができて、偉いでしょう?」
「え、えらい?」
「そうですよ。エリスをクッキーなんかで釣ろうとして……正直、腹わた煮えくり返りっぱなしでした。それをぐっと堪えたのですから。何かご褒美、いただけませんか?」
なんてことを、顔を近付けながら囁く。
恐らく、エリスでなければ気付けないだろう。
この、好青年然とした瞳の奥に……
ギラギラした嫉妬の炎が、熱く燃えさかっていることに。
……これは案外……鎮火が大変かもなぁ。と。
エリスは小さく息を吐いてから。
「……何がお望みなの?」
「えっ。くれるのですか? ご褒美」
「……できる範囲で、言うこと聞いてあげる」
「うわぁ、やった。それじゃあ……」
ひそひそと、耳元で告げられたクレアの"要求"に。
エリスは、ボンッ!と全身を真っ赤に染め上げて、
「は……はぁ?! あんたってどこまで変態なの?!」
「えぇ〜。駄目、ですか……?」
なんて、今度は子犬のような目で見つめられ。
エリスは……嫉妬させてしまった後ろめたさもあり、それで炎が収まるならと、自分に言い聞かせて。
「…………クッキー二十枚で手を打ちましょう」
交渉成立。
クレアは、ニヤリと笑うと、
「エリスって、なんだかんだ私に甘いですよね。ひょっとして、私のこと大好きなんですか?」
「……そう思うんなら、ヤキモチなんか妬かないでくれる?」
「それは無理ですね。好きなので。私がどれほど、貴女を独占したいと思っているか……帰ったらたっぷり、教えてさしあげますよ」
真っ赤に染まったエリスの耳元で、そっと囁いて。
クレアは再び彼女の手を引き、二人の暮らす家へと歩き始めた。
* * *
──数日後。
「あの娘、可愛いよなぁ……」
……と、食堂のカウンターに現れたエリスを見て、一人の料理人が呟く。
が。
ガシィッ! と、ブランがその肩を掴み、必死の形相で、
「あの娘はやめとけ……恐ろしい死神がついてる!!」
そう忠告し。
クレアの目論見通り、食堂内に『死神伝説』の噂が広まり……
以降、エリスが食堂で粉をかけられることは、一切なくなったのだった。
*おしまい*
お読みいただき ありがとうございました。
今回のお話は、作者ツイッターに設置の『お題箱』にお寄せいただいたリクエストを元に執筆させていただきました。
①『最近エリスが職場の人からお菓子を頻繁にもらってくる……感じの話が見たいです……!』
②『クレアさんの執着心、嫉妬心が最大になってメラメラしているところが見てみたいです』
別々のお題でしたが、関連付けられそうだったので合体させちゃいました。リクをくださった方々、ありがとうございます!
モブ視点の方が 嫉妬するクレアの怖さをより表現できるのではと思い、このような形にしてみましたが……いかがだったでしょうか。
かつてエリスが学生だった頃、彼は似たようなことをして恋敵を駆逐していましたね。
私の中で、クレアはだんだんとねちっこいメンヘラ男になっていったような気がしていましたが、今見返すとあの頃から十分陰湿でネチネチしたやつでした。こんなのが主人公で、本当にすみません。
なお、彼がエリスに要求した『ご褒美』の内容は……みなさまのご想像にお任せします。
それでは。長々と失礼いたしました。