295.増幅
針を落とした音さえも聞こえそうなくらいの静寂の中、舞台に上がったアメリアはゆっくりと88弦琴の前に移動した。
琴の前に立ったアメリアは真っ正面にいる俺を見つめた。
「……」
「……」
見つめあう俺とアメリア。
アメリアの目は何かを伝えたがっているように見えた。
負の感情は一切感じられない、気後れしているとかそういう事でもない。
それなのに、まっすぐ俺を見つめて何かを伝えてこようとしている様子。
「……」
俺は小さく頷いた。
それが正解なのかは分からない、でも頷いた。
まるで合図、あるいは許可というのだろうか。
そういう類の仕草だった。
それをうけとったアメリアは穏やかに微笑んで、琴の前に座った。
それで琴に手を伸ばす――かと思いきや、アメリアはすぅと息を大きく吸い込んで、歌い出した。
「――っ!?」
世界中のどんな楽器よりも、素晴らしい歌声、その歌い出し。
『歌い出しはアカペラか』
楽器の伴奏を伴わない、アカペラ。
その歌声が白い雷のように、全身をつきぬけていった。
脳髄まで突き抜けて、全身が甘美にシビれるほどの歌声。
そのまま一節を歌いきって――一呼吸。
アメリアは今度こそ琴に指を這わせて、弦をならしながら歌い出した。
最高という感想以外あり得ない演奏と歌だった。
かつて盗み聞きしていたアメリアの歌声。
最高の環境。
最高の道具。
そして最高の位置。
それらが合わさって、あの時とは比較にならないほどの衝撃を覚える。
俺はアメリアの歌声に聞き入った。
その後の事はよく覚えていない。
記憶には一切残らなかったが、感情はしっかり覚えている。
最高の曲を聴けたことで覚えた感情が、魂レベルにしっかり刻み込まれたと、俺は感じたのだった。
☆
夜、魔物の街。
魔法の光で不夜城と化している街は、いつもよりも遙かに賑やかだった。
あっちこっちで酒盛りが行われ、魔物や人間達が盛り上がっている。
これほどの盛り上がりは、俺の記憶では収穫祭か聖人の誕生祭くらいのものだ。
その盛り上がりはもちろん、アメリアの演奏会が発端だった。
演奏会のあと、最高の曲を聴いたこの街の者達は自然とその盛り上がりを引き継いだまま、お祭り騒ぎのどんちゃん騒ぎを始めた。
そんな光景を、俺は宮殿のテラスから見下ろした。
『まだ呆けているのか』
「ラードーン。いや、大分戻った。また余韻は残ってるけど」
『我には今ひとつピンとは来なかったが、この盛り上がり、よほどのものだったということか』
「ああ、最高だった。あれこれやってきたけどあれが聞けて良かったって思う」
『そうか。で、これからどうする』
「これから?」
『あの娘のことだ』
「どうするって言われても……まあ、アメリアさんの意志次第だけど」
『うむ? それでよいのか?』
何故かラードーンが、とても意外そうな反応をした。
俺がそういうなんてまったくの予想外だ、という感じの反応だ。
「それでいいって、どういう意味だ?」
『……きづいていないのか? これはこれは、ふふっ……面白いな』
「どういうことだ?」
俺はますます不思議がった。
気づいていない、とラードーンはいった。
それはつまりラードーンが気づいている何かがあって、同時にラードーンが俺なら気づいているとも思っているような何かだっていう事でもある。
俺は首をかしげ、記憶を辿った。
おそらくは演奏会のことだろう。
演奏会からこっち、俺が「気づく」ような事はなにかあったんだろうか。
それを記憶の中から探そうとした――が。
見つからなかった。
心あたりがまったくなかった。
『これは驚きだ。まさかまったく気づいていないとはな』
「どういうことだ? 分かるように教えてくれ」
『もういちど聞く、何か気づいていないのか? ――魔法のことで』
「魔法の事?」
その言葉で俺もちょっとマジになった。
もし本当ならラードーンの言葉はすべて納得する。
魔法の事で何かがおきて、ラードーンは「魔法の事なら」俺は気づくとして聞いてきた。
それを俺は気づいていないと来ればラードーンが念押しで更に聞いてくるのもうなずける。
――が。
「悪い、本当に心あたりがない」
『ふむ。それほどの事だったともいえるか、あの歌は』
「一体どういうことなんだ? 教えてくれ」
『うむ。お前の魔力の事だよ』
「俺の魔力?」
そう言われて、俺は自分の体の中に流れる魔力を探った。
正直いつも通りで、何かが変わったという感じはしない。
『今ではない。あの歌を聴いている最中だ』
「歌の最中……で、魔力?」
『うむ』
「……」
『本当に気づいていないようだな。まあいい。あの歌を聴いている最中、お前の魔力が高まっていたぞ』
「え?」
驚いた。
すごく驚いた。
めちゃくちゃに驚いた。
「アメリアさんの演奏の最中に魔力が高まった、ってこと?」
『うむ』
ラードーンは即答した。
まったくもって驚きの事実だが、ラードーンの次の言葉で俺は更に驚かされる。
『前詠唱と同じ高まり方だったぞ。普段のお前なら歌と前詠唱の重複を――と考えていたとおもっていてな』
「……」
開いた口が塞がらないほど、俺はおどろいたのだった。