273.魂を売った女
パルタ公国領、トリスタンの屋敷。
会議の間で、トリスタンとスカーレットがテーブルを挟んで向き合っていた。
連日の心労が祟ってか、トリスタンは大公とよばれ敬われていた頃の威厳は見る影もなく、眼窩が窪み、頬はこけ、すっかりとやつれきっていた。
しつらえのいいチェアに腰を下ろしているものの、そのイスがなければ今でも崩れ落ちてしまいそうな位、姿勢そのものに力がなかった。
その背後にひかえる部下たちも程度の差はあれど、ほとんどがトリスタンと似たような有様だった。
一方のスカーレットは見るからに余裕があった。
トリスタンとは対照的に背筋をピンと伸ばしてすわっていて、目に力強い光をたたえて、口元をきりっと引き結んでいる。
トリスタンとは違い、ジャミール王女だった彼女は容姿と雰囲気、両方を維持させたままだった。
そんな二人が向き合って、スカーレットが先に口を開いた。
「本日こそは色よい返事を頂きたいものですね」
「ど、どうか、もう少しだけ条件を緩めていただけないだろうか」
「……」
トリスタンが必死に訴え、スカーレットが冷ややかな目でみる、そして同席したトリスタンの部下たちがハラハラした様子でそれを見守る。
ここしばらくの間延々と繰り返されてきた光景だ。
「このままでは公国領が、民が生きていけない」
「民のことは気の毒だと思っている」
「では――」
「無能な領主の巻き添えになってしまったのは不運としか言いようが無い」
「――なっ」
一瞬、目に希望の光が宿ったトリスタンだが、それは文字通りほんの一瞬で、スカーレットのつづく言葉に跡形もなく蹴散らされてしまった。
「大公はいくつか勘違いしておられる」
「勘違い?」
「我が国はそちらが規定した魔物の国だ。魔物に人間の民をいたわれと懇願して聞き入れられるとお思いか?」
「し、しかしあなたは――」
「私の事を『魔物に魂を売った女』と影で言っていたのを存じ上げないとでも?」
「なっ! なぜそれを――」
トリスタンが驚愕する、背後にいる部下たちも動揺した。
スカーレットは取り澄ました顔で、それ以上何も言わなかった。
何も言わないかわりに、薄ら笑いでじっとトリスタンを見つめた。
彼女は実際何も知らない、今の話はただのカマカケだ。
しかし彼女は聡い、そして人間の――特に貴族や権力を持った人間の思考パターンを知悉している。
裏でだれかが「魔物に魂を売った女」というような陰口をたたいたことがあるのは間違いないと思っている。
だから彼女は確信をもってカマをかけた、そしてそれは大当たりだった。
トリスタン側に動揺が走った。
交渉の責任者に対する陰口が露見したと思って、全員が狼狽しだした。
そんな中、一番最初に動揺し、激しく狼狽したトリスタンは、何を思ったのか奥歯をかみしめスカーレットを睨みつけた。
「いい加減にしたまえよ。こちらにも我慢の限界というものがある」
「あら?」
スカーレットは薄ら笑いを張り付かせたまま、なにやら楽しげな、と見える表情でトリスタンを見つめ返す。
「我慢の限界だったらなんだというのでしょう?」
「決裂にきまっているだろ! あの時は油断したが今度はそうはいかない!」
「と、トリスタン様!?」
テーブルを叩いて立ち上がるトリスタンに、部下たちが慌ててなだめようとした。
「もう一度開戦する様なことになれば貴女の責任問題にもなるぞ! それでいいのか!?」
「大公はいくつか勘違いしておられる、そう申し上げました」
命乞いから一変、今度は恫喝を始めたトリスタンだが、スカーレットはまるで怯えるようすはなかった。
「なに!?」
「妾は開戦――いや、再戦派なのですよ」
「……え?」
「主や神竜様は何かお考えがあって、慈悲をかけようとしておられる。しかし妾はそこまで慈悲深くはない。主をコケにしたものは根絶やしにしたいと考えている」
「ね、だ……」
「な、なにもそこまで」
絶句するトリスタン。
部下の一人が代わりにスカーレットをなだめようとした。
「それほどおかしな事はいっていないつもりだ。自分に対する無礼は笑って許せても、敬愛するものへの無礼は何があろうとも許せない。理解は難しいかな?」
「むっ……」
口を挟んだ部下が絶句した。
今や魔物側に立ったと公言するスカーレットだが、彼女が口にしたその考え方は実に人間的な考え方だ。
自分への無礼は許せる、しかし尊敬したり愛したりする人間への無礼は許せない。
そう思う人間は決して少数派ではない。
そう話したスカーレットは、自分の言葉が相手を飲み込んだのをみて、更にたたみかけた。
「妾は主をコケにした人間を根絶やしにしたいと考えている」
「……」
「だが主の命令は絶対だ」
「……」
「とはいえ人間には失敗はつきもの」
「……」
「失敗をすれば挽回も必要となる」
「……」
「大公の方から是非交渉を白紙に戻していただきたい。そうすれば妾は挽回のため、大手を振ってこの国の人間を根絶やしにできる」
「……しょ、正気か?」
「大公はいくつか勘違いしておられる」
スカーレットは三度同じ言葉を繰り返して、最後にトドメと言わんばかりににやりと口角をゆがめる。
「妾は――魔物に魂を売った女、なのだよ」
スカーレットの言葉がトドメとなった。
その場にいる全員がスカーレットの作り出した雰囲気に飲まれて、諦めざるをえない気分にさせられた。
この三日後に、トリスタン公国は魔国リアム=ラードーンに対して全面的に降伏をもうしいれるのであった。