青羽幸也という男。
「先日□□県△△市内の川で発見された女性の遺体が青羽風音さん、二十四歳のものであると確認されると同時に「自分が彼女を殺した」と青羽幸也容疑者、二十七歳が警察に出頭しました。青羽容疑者は警察の取り調べに積極的に応じており、凶器のナイフが証言通りの場所から発見されたため、犯人は青羽容疑者で間違いないとされています。」
「青羽風音といえば、有名な推理小説家じゃないですか。私も彼女の作品のファンでしたよ。特に『帰郷』は好きでしたね。」
「他にも多くの有名作品を残している彼女の死を悼む人々は、大変多いようです。
それでは、明日のお天気です。」
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そこまで聞いて黒橋はテレビを切り、深い溜め息をつく代わりに煙草の煙で肺を満たす。
刑事・黒橋大悟はこの事件の担当者だった。
「○○川に人の死体が浮いている」という通報を受けて死体を確認し、身元を割り出すまでに一週間程度はかかった。
何せ遺体の損壊は激しく、雑誌やニュースで見かける青羽風音の凛とした面影は何一つとして残されてはいなかったのだから。
執拗に刺されていたことから、よほどの恨みを買っていることが見てとれた。
そうして黒橋が「ここから犯人探しだ」と意気込んだところに出頭してきたのが、青羽幸也である。
ニュースで報道されていた通り、青羽幸也は積極的に取り調べに応じた。
聞いてもいないことさえぺらぺらと喋りだす始末だ。
異常なほどによく回るあの舌には、さぞかし油がのっていることだろう。
黒橋には青羽幸也のその饒舌さが不気味に思えた。
犯人しか知り得ない凶器の場所を知っていたことや、犯行方法を正確に話したことから犯人であることは間違いない。
しかし青羽幸也は、頑なに動機を話そうとしないのだ。
他の質問には全て快く、無邪気な笑顔すら浮かべて答えるのにも関わらず「動機は何だ」と聞くと、道化師のような、真意の読めないニヤニヤとした気持ちの悪い笑顔になって黙ってしまう。
物的証拠はあるために特に問題はないのだが、黒橋はそのがさつそうな見た目とは裏腹に、事件の全容を知らないと気が済まない質だ。
あれだけ饒舌な青羽幸也が黙るのには理由があるのではないか。
そう考え始めてしまうと、見て見ぬ振りは出来なくなっていた。
同僚はそんな黒橋を指して「石橋を壊しこそしないが、渡るまでに無駄な時間をかけすぎる男だ」と言う。
その言葉は実際その通りであり、黒橋には否定するつもりはない。
これから黒橋が行う調査に深い意味や価値などはないのだ。
ただ、自分の中にあるもやもやとした違和感を消し去るための作業にすぎない。
黒橋は煙草を灰皿に押し付け、デスクに置いてあった冷めた珈琲を一気に飲み干した。
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青羽幸也の両親は五年ほど前に交通事故で亡くなっていて、親戚の類いもない。
唯一の家族といえば、自らが殺したと証言している青羽風音に他ならない。
二人が結婚したのは今から二年前の六月らしい。
それなりに裕福な青羽風音の家に青羽幸也が転がり込んだ形になる。
姓は元から同じだったらしく、恐らく婿養子になったのだろう。
青羽幸也の証言では、街中の喫茶店で偶然出会い、親しくなってから交際を始めたらしい。
今から向かうのはその喫茶店だ。
見た目はこじんまりとした、どこか男が入りにくそうな喫茶店だが、青羽幸也はその店の常連らしい。
店に入ると、黒髪に所々白髪が混じった男の店主が黒橋を出迎えた。
「いらっしゃいませ。お好きな場所にお座りください。」
夕食時とも思えるこの時間だと、黒橋以外に客はいないらしい。
それは好都合だ、と黒橋はカウンターの一席に腰かける。
「つかぬことをお伺いしますが、青羽幸也という男をご存じですか?」
「青羽……あぁ、はい。いつもカウンターの一番端の席で同じものを注文していたので覚えていますよ。」
「あまり多くはない男性客ですし。」と店主は付け足す。
ここが常連だという話は嘘ではなかったらしい。
店主はあまりニュースや新聞は見ないらしく、黒橋のことを不思議そうな顔で見る。
「青羽幸也が妻の青羽風音を殺害したと出頭してきたもので。青羽幸也がどのような人間なのかを知ろうと思いまして。」
「幸也さんが?」
そこまで言って、警察手帳を見せる。
それを見て店主は小さな目を大きく見開き、二、三度声を出さずに口を開閉する。
とても信じられない、というような顔を隠しきれないまま、店主は一つ咳払いをする。
「そうでしたか、彼が……」
「はい。そして証言では、この喫茶店で青羽風音さんと出会ったと言っていたのですが、ご存じありませんか?二年以上は前のことになりますが。」
「さぁ……私が見ていた限りではいつも一人でしたから。」
そう言ってから、店主は思い出したかのように「あっ、」と声をあげる。
「もしかすると、私が入院していた間のことなのかも知れません。その間の店番は妻がしていましたから。」
「その奥さんにお話を伺えますか?」と聞くも、店主は恥ずかしそうに皺の刻まれた顔に笑顔を浮かべ「恥ずかしながら、妻とは去年に離縁してしまいまして、今の所在は……」と言う。
「そうですか。ありがとうございました。」
「お力になれずすみません。」
申し訳なさそうに頭を下げる店主に「いえいえ。」と首を振り、一杯だけ珈琲を飲んで外に出た。
青羽幸也には特に親しい友人がいたわけではないらしいので、次に向かう場所となれば職場しか存在しない。
一応「近日中にお話を伺いに行きます。」と電話を入れておいたから、話くらいは聞けるだろう。
その職場というのが、行きつけの喫茶店から数分歩いた場所にある書店だった。
中に入って見えるのは積み上げられた本の山。
しかもどれにも埃が溜まっていた。
どうやら、書店は書店でも古本を取り扱っているらしい。
果たして大人三人分の足の置き場があるのか。
黒橋は思わずそんなことを考えた。
「いらっしゃい……こんな時間に人が来るということは、ひょっとして刑事さんかな?」
「はい。先日電話させていただいた黒橋です。青羽幸也についてのお話を伺いに参りました。」
喫茶店の店主よりも二十は齢を重ねているであろう彼は「入りなさい。少し散らかっているから気を付けてな。」と奥に進むように促す。
奥の方は少し、という言葉の意味について話し合いたくなる有り様だった。
華奢な体ではそうでもないのかもしれないが、黒橋のような大きな男では常に身を屈めている必要がある。
下手に本の山にぶつかれば、その山が崩れかねない。
黒橋は本に埋もれて死にたいというわけではないので細心の注意を払って、できるだけじっとしていた。
「とはいえ、儂が青羽に関して言えることなどほとんどない。奴はそれはもう無口で、声を聞いたことなど片手で収まる回数でな。」
「無口、ですか。」
職場ではそうでも、刑事たちの目の前ではむしろ逆だ。
きっと今ごろは、その饒舌さで黒橋の部下を困らせている頃だろう。
それに、普段無口な人間がやたらと喋る時ほど気味が悪く、怪しい時はない。
「青羽は客が来ない間はいつも本を読んでおったよ。特に『監獄』という推理小説は、見ているこっちが飽きるほどに読み込んでいた。」
「『監獄』とは………青羽風音の小説の?」
「そうだよ。一度だけ「そんなに面白いか。」と聞いたことがあったが、その時はこの本について散々聞かされたよ。」
『監獄』は、青羽風音の小説にしては珍しく、あまり好評ではなかった作品だ。
他の小説ではあまり見られないグロテスクな表現や、少し乱れた文章、そして最後に主人公である探偵が自殺してしまったことが原因らしい。
もっとも、その次の『帰郷』は、逆に今までにない好評価だったが。
とはいえ、普段から本を読むことのない黒橋には、その内容はほとんど解らない。
「その本、ここにありますか?」
「青羽が普段読んでいたものならな。持っていくか?」
「いいんですか?」
「捜査の役に立つならな。」
彼は埃が被っていない二冊の本を黒橋に手渡して、少し得意気な顔で笑った。
「刑事さん、全てを知った上で青羽の奴を罰してくれ。」
黒橋は渡された『帰郷』と『監獄』の本を見て、しっかりと頷いた。
そんな黒橋を見てか、彼は「まぁ、ただのファンの願望でしかないがな。」と言った。
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「……はぁ。」
「珍しいっすね、黒橋さんが本を読むなんて。それも二冊も。」
部下の白凪は少し疲れたように笑いながら黒橋をからかう。
ついさっきまで青羽幸也の取り調べをしていたから、白凪のその反応も納得できる。
古本屋で貰った『帰郷』と『監獄』の二冊を読み終えるのに黒橋はそれなりの時間を要した。
文字と向き合うことの少ない黒橋は、外を走り回るよりも体力を消費している。
『帰郷』は、東京から帰郷した主人公が、実家で無惨にも殺された両親の姿を見つけるところから始まった。
探偵でも、ましてや刑事でもない主人公は捜査に参加できなかったが、最終的には自力で犯人を見つけ出す。
そして最終場面。
ついに犯人を追い詰めた主人公は、その犯人を警察に突き出すか、自らの手で殺めるかの葛藤に襲われる。
しかし主人公は「家族がいる場所こそが自分にとっての故郷だ。」と、犯人を殺めた後に自らの命を経った。
対して『監獄』は、犯人視点の物語だった。
人を殺めることに快楽を感じる女は、何度も人を殺める。
繰り返し、繰り返し。
数を重ねるごとに上達していくトリックに探偵は翻弄され、謎を解けない自分に絶望し「私自身の脳という狭い監獄から逃げ出すことを許してくれ。」と言い残して自殺した。
「白凪。お前はどっちがいいと思う。」
「それはまぁ、『帰郷』っすね。あの世ってのがあるのかどうかは知らないけど、だからこそ主人公のその後をそれぞれで解釈できるんじゃないっすか?主人公のしたことが無意味だったのか、ただの罪なのか。」
茶色に染め上げられた髪を掻きながら軽く言う白凪に、黒橋も同意する。
きっとそれが大半の人間の反応だ。
だが、青羽幸也は違った。
あの男は何度も何度も『監獄』を読み、その良さを熱弁すらしていた。
あの男のことを知り、理解して話を聞き出すには、『監獄』を理解するしかないのかもしれない。
人殺しに快楽を感じる人間の小説を理解するなどひどく気乗りしないが、やむを得ないのだろう。
「白凪、少し出てくる。」
「あ、だったら俺も、」
「行き先を聞かずにそんなことを言ってもいいのか?今から行くのは取調室だぞ。」
黒橋の言葉に白凪は露骨に顔をしかめ「遠慮しときます。」と言った。
だろうな、と黒橋は納得する。
今の青羽幸也と同じ空間にいるのは、相当に疲れる。
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「あぁ、会いたかった!話し相手がいなくて退屈していたんですよ!あの白凪とかいう男、ホストみたいな見た目の癖に、てんで話を盛り上げやしない。」
青羽幸也は子供のような笑顔を浮かべて、本当に嬉しそうに言う。
ここが取調室ではなく、街中の洒落た喫茶店なら、歳の割りに無邪気な男、という印象で終わるのだろう。
「白凪は話上手だ。お前が喋りすぎるから口を挟めないだけでな。」
「それは悪いことをした。次は頑張って無口でいなくては。」
「俺からすれば、今のキャラの方が頑張っているように思うが。」
青羽幸也の時が止まったように感じた。
無邪気な笑顔は氷のように固まり、呼吸さえも止まった彫像のように見える。
しかしそれも一瞬のことで、青羽幸也は無表情になっていた。
気味の悪い光を宿していた瞳からは光が消え、生気のような物も消え失せた。
きっと、これが本来の青羽幸也なのだろう。
「・・・本屋、行ったんですか。」
「あぁ。随分無口な人間だそうじゃないか。そこまで無理をして、お前は何を隠したいんだ?」
「・・・・・・」
黙りになって、何も言おうとはしない。
どうやらそれは動機に関係するらしい。
ある意味解りやすい反応でもある。
「『監獄』。」
「・・・!」
「世間に酷評を受けていた割りには、意外と面白かった。だが、白凪の奴は「俺は『帰郷』の方がいいっすね」とか言っていてな。作品の良さを解り合えないことに憂いていたところだ。」
勿論嘘だ。
黒橋は白凪の意見に賛成だし、作品の良さに対して語り合えるような読解力があるわけでもない。
だからこそ、青羽幸也に『監獄』の良さを聞き出そうとしている。
「そこで知った。お前がこの本の熱心な読者だということにな。しかも気に入っていたそうじゃないか。どうだ?今日はこれについて話し合わないか。」
「・・・意外ですね。黒橋さんは本を読まない質かと思ってました。」
事実だ。
最後に本を読んだのは何時だったか。
きっと、白凪の方が読んでいる。
それでも今は、と読書家の振りをする。
いけしゃあしゃあと、嘘を吐く。
「馬鹿言え。俺は結構な読書家だ。」
「なら、話し合おう。」
青羽幸也はそう言って、生気の失せた瞳に別種の光を宿らせた。