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第7話 命は手から零れ落ちる

 今日の海は本当に青くて、空との境界線は曖昧だった。こんなに天気がいいなら人も多いかと心配したけれど、杞憂だったようだ。辿り着いたのはごく普通の寂れた港で、車はおろか船さえもまばらだった。

 港から目と鼻の先にある駐車場に車を停めると、悪魔は昼ごはんを持って車から降りた。どうやらここが目的地らしい。


 アスファルトはひび割れていて、まばらに建つ一軒家はどれも潮風で傷んでいる。小型の船が幾つか浮いていたが、昼過ぎだからか人影はなかった。


「思ったより寂れてるね」

「観光地とは程遠い場所です。もっとも、一個人の故郷へ行くならこんなものですよ。もう少しデートらしい場所がいいなら、」

「そんなんじゃないのでいいです」


 ふむ、と不服そうに溜息をつくと、素早く気を取り直した悪魔は歩き出した。港を横切って、細く伸びる海沿いの砂利道へ入っていく。

「高橋辰紀さんは、この町で父親と母親、姉と4人で暮らしていました。彼が高校生の時に姉が死亡していますが、概ね穏やかな生活を送っていたようです」

「今から行くところって、高橋さんの強い思い出が残った場所なんだよね」

「ええ、そうですが」


 なにか? と悪魔が振り返る。私の足取りは目に見えて重かった。

「何から何まで知りたいのでしょう?」

「そうなんだけどね」



 他人の過去と向き合う時、どうしたって蘇ってくるのは自分の過去だった。父親と母親の後ろ姿が、見えるはずもないのに視界にちらつく。

 あなたと私の骨組みを照らし合わせる勇気を、未だに持ち合わせていないのだ。



「こらこら、なに辛気臭い顔をしているんですか。らしくもない」

「いつもこんな顔ですけど」

「自虐をしない! 気になる人の過去でしょう、もっと心を踊らせてもいいんですよ。誰だって想い人のことは何だって知りたいものでしょうから」

「みんなそうかな」

「ええ、人間なら誰だって」

「私は人間じゃなかったりしない?」


 不味いものを口に入れた時のように、彼は酷く気持ち悪そうな顔をした。

「えー、そんな訳ないでしょう。冗談でもやめてくださいよ……あなたが人間だから、我々がこうやって取引出来てるというのに」


 それもそうかと適当に頷いて、砂利を蹴った。


 コンクリートに当たった波が砕けている。しばらく歩くと、大きな岩がゴロゴロ転がる磯場にたどり着いた。

「足元に気を付けてください」

 岩から岩へ飛び移るようにして更に海へ近づくと、とうとう水に触れられる所までやってきた。足元には窪みに海水が溜まっていて、名前もわからない小魚が閉じ込められている。


「ここです。高橋辰紀さんが高校生の時に刻みつけられた記憶が、まだ残っている」

 用意はいいですか、と悪魔に問われた。もちろん準備なんて一切出来ていないけれど、せめて穏やかに頷いてみせる。



 他人の思い出に味があるなら、それはきっと儚くて脆く、一度舌に残ればしばらく消えない苦味。それが幸せな思い出でも、つらくて悲しい記憶でも、見ている私は息が詰まるような苦味に溺れていく。



「そこに魚がいるでしょう? よく見て、波の音を聞いて。それはあなたの記憶、あなたの思い出。この場所でしか再生されない、在りし日の姿」



 言葉に導かれて、私はまた思い出した。そうだあの日、この場所で海を見ながら決めたのだ。命は砂のようにこぼれ落ちていくから、手に力を込めて留めようとするのはやめようって。









「姉さんは助からないんだと思う。母さんも父さんも諦めたことを、俺もやっと諦めたんだ」


 小さな岩場の水溜りには、イソギンチャクが生えていた。その中をカニと小魚が右往左往している。隣には広い海があるのに、満潮にならない限り彼らはここから出ることが出来ない。


「医者が出来ないって言ってるんだから、無理なものは無理なんだ」

「本当にそれでいいの」

「俺はただの子どもだよ。何もしてやれないことくらい分かってるんだ」

 波の音を聞いているつもりなのに、心は別の場所に出かけたまま帰ってこない。姉が二度と戻らない、我が家のリビングテーブルを囲む椅子のひとつか、ICUに並ぶベッドの前か。

 いつから彼女の居場所は、いつもの椅子から冷たいベッドの上に移されたのだろう。


 あなたは自分の足でそこに行ったのか、教えて欲しい。それとも誰かが運んでしまったというのだろうか。


 誰かのせいだとしたら、神様か。天使か、悪魔か。それとも人間?


「まだお姉さんは生きてるんでしょう」



 俺の隣に腰を下ろした■■は、考えをすべて呼んだかのようなことを言った。思い詰めて海なんかを眺めている人の思考なんて、簡単に読めるものなのだろう。

「うん、生きてる。でも今日の夜は越えられない」

「今は生きてる」

「何が言いたいんだ」

「私は」


 あなたに幸せになって欲しいんだよ、と■■は口にした。必死に姉のことを考えている俺に向ける言葉にしては、残酷だった。

 俺の彼女は、いつだって残酷なのだ。


「まだ生きてるんでしょう? やれることはある。夜を越えられないなら、夜まで手を尽くせばいい。辰紀が医者じゃなくても、神様じゃなくても、あなたを救うための行動をしなくちゃ」

 見なくたってわかることが一つだけある。今、■■は笑っているのだ。酷いことを言いながら、お門違いな希望を持たせようとする。


「私に出来ることは何でもするよ。どんなことだっていい、一緒に考えよう。辰紀自身のために、出来ることをしよう」

「それが出来るとでも?」

 彼女は力強く頷いた。今こそ勇気を出す時だ、と呟く。自分のために願う勇気を持てと背中を押す。



 姉は優しいくせにワガママだった。いつだって自分のことばかりで、他人のことなんてこれっぽっちも考えちゃいない。家族みんなはそれに振り回され続けていて、父と母は時折頭を抱えていた。

 俺は、そんな姉の横暴さに憧れていたのかもしれない。

 だから、今こそ。



「いいや、何もいらない。このままでいいんだ。自分にも、■■にも、何一つ望まない。まだこんなことを言うなんて馬鹿だなって思うけど、これでいいから」








 目を覚ます時、ふっとバランスを崩して海へ落ちかけた。私の肩を支えた悪魔は、また不満そうな溜息をつく。

「また交際女性の登場ですか。惚気けているのかなんなのか……いい加減吐き気がしますよ」

 そう思いませんかと口にしかけて、彼はぴたりと言葉を止めた。私の目からぽろぽろ落ちる涙を見て顔をしかめる。


 人のつらい記憶を覗き見たことへの罪悪感は確かにある。本当はこんなことをしてはいけない。でも、悪魔を介した行動に慣れすぎてしまっている私にとっては些細な感情だった。


「ちょっと……ごめん、色々思い出してしまって、混乱してて」

「御家族のことですか」

「うん、すぐ落ち着く。すぐ薄れる」


 両手で顔を覆っても、指の間から涙が滑り落ちていく。どうしてこうも止められないんだろう。



「幸せな家族じゃあなかったんですか? 少なくとも私の記憶の中で、あなたは笑っていましたが」

「いや、幸せだったよ。間違いなく幸せだったんだけど」



 私の母は少し感情的だった。父親が不倫をした時に包丁を持ち出して家で暴れたあの人は、誰かを傷つける前に泣き崩れて、行き場を失くした刃先を畳に突き刺した。




 ぺしゃんこになって泣きじゃくる母親の後ろ姿を見た時に、私は生まれて初めて悪魔に願った。

 父親と母親が、仲良くなりますように。

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