生き恥
干し柿はいらぬと水を乞うた男は言う。
だが、干し柿しかないと言われると、即座にそうして断った。なぜかと問うと、体に良くないからだという。白の死装束をまとい、これからその首を飛ばされるというのに体を気遣う様に、処刑人達は笑い飛ばした。
だが、男はそんな彼らに意にも返さず、毅然とした態度で言い放つ。
「大器を成す器とは、死を目前としても体を気遣うものだ」
そして彼は虚空を見上げる。空を見ることも、これで最後だった。
目に映る刃が紅く塗れた時、もう彼はこの世にはいない。
「あんた、大気を成す器がどうこう言ったが、今となっちゃ関係ないぜ。これで生き恥をさらした男として、歴史に名を残すからな」
処刑人が、あざ笑う。
しかし、男はその言葉を歯牙にもかけない。むしろ彼に対して鼻で笑ってみせる。
「貴様、これから死ぬと言うのに、よほど余裕があるじゃないか……」
「余裕、か。……私にあるのは、そんな生半可なものではない」
男は、石田三成は不敵に笑ってみせる。
「貴様にはわからんよ、私が背負っているものはな」
天下分け目の関ヶ原。
石田三成はそこで敗北を遂げた。軍は崩れに崩れ、彼自身もまた落ち延びることを余儀なくされた。多くの忠臣を目の前で失った。
幾度も自分を諌めてくれた老将島左近。
挙兵の折に命を賭す覚悟を示した親友大谷刑部吉継。
他にも数え切れないほどの家臣があの血霧の中で散っていった。誰もが死にたくはなかったはずだ。それでも、生死を三成に賭して戦い、あえなくも斃れた。
幾度もあの場で死ねばよかったかもしれない。そう、三成は幾度も後悔した。
風雨に打たれ、土に汚れ、逃げるたびに負った傷の痛みが体を貫く。あの場で死ねば、このような惨めなめにあわずに済んでいたのかもしれない。
けれど、三成は自害を選ばなかった。
確かに刃を首元に当てたことはある。だが、その度に彼は思いとどまり終いには刀を捨てた。
私には、為さねばならぬ望みがある。
そう目を閉じれば、いつかの輝いていた日々が浮かび上がる。かつて自らを「父」のように可愛がり、取り立ててくれた太閤秀吉。息子のように愛してくれたねね様、そしてその中にいる彼。
もはや、その日々は失われてしまった。秀吉が死んでから、この国には不穏が渦巻いてばかりだ。豊臣の家は内部分裂を起こし、その中で湧いてきた徳川家康が秀吉の築いた天下を虎視眈々と狙っている。
太閤様の築いた者は、私が守る。
それは、使命感でもあった。「父」を亡くした彼にとって、「父」が築いた者を他人に壊されていくのが我慢ならなかったのだ。
そして、戦を起こし、彼は負けた。結果として、大切な人々が何人も死んでいった。自分にその生死を託して、死んでいったのだ。
「今更、今更私が死んで何になる。私はまだ、生きねばいけないのだ……!」
彼は大きな業を背負い、屍の上をただ一人で歩く。
足元には、槍を持った老将の腕。向こうを見れば、爛れた表情を見せる首。
そんな彼らを踏み越えて、彼はなおも生きようともがいた。生きて望みを果たそうともがいた。
業を背負った彼にとって、それが彼らに手向けることができる、唯一のものなのだ。
だが、彼はあえなく捕まった。縄につながれ、その姿を民衆の前に現した。誰もが「生き残ってしまった」この戦の敗者の頭を好奇な目で見た。
縄をかけられ彼はその身を晒される。髪や髭は無様なほどに伸び、身なりはまさに罪人と呼ぶにふさわしいほどだった。
唯一違うのはその態度だ。どこまでも誇り高く、毅然とした姿勢はその格好と反している。
勝者の武将達はそんな彼に罵倒を繰り返した。戦の前は東軍の武将達に襲撃されるほどに毛嫌いされていたのだ、当然のことである。
三成はそんな彼らに対して、けして卑屈になることはなかった。かつての彼だったら、このような敗者を侮蔑に耐えられなかったであろう。潔癖を望み、汚れたことを嫌っていた。このような無様な姿は、尚更だ。
しかし、今の彼にはそんなことはもはや瑣末事。彼の脳裏には、あの戦いで死んだ男達がいる。彼らを思い返せば、このような屈辱など小さいことに思えた。
業を背負った彼の中にはは、覚悟という言葉では物足りないものが確かにあった。
「なんと言おうとも、お前はここで死ぬのだ。もう、諦めたらどうだ」
処刑人の持つ刀が、目の前に振りかざされる。刀身に映る自らの顔。自らでも驚くほどに、気色がいい。
「俺は、死のうとは思っていない。諦めることはできぬ」
「まだ、減らず口を言うか。武将の風上にも置けぬ、恥さらしが」
恥晒し、か。
心の内で、苦笑する。
結局、生き恥を晒した先に見えるは、三途の河を醸し出すような河原。その向こうにそびえ立つ山の緑は、男の最期を見下ろしている。
後悔はしていない。するつもりも毛頭ない。
だが、彼がどれだけ生を望もうとも、終わりは刻々と迫ってくる。しかし尚も男は諦めない。けして、ここで生きることを諦めやしない。
刑場へと佇み腰を下ろす。見開いたその目には、自らを終わらせる刃が目に見える。彼の他に捕まった者達は既に斬られた。次は、彼の番。
「これで、貴様もおしまいだ」
白刃が、煌めきをたてる。
もはや、彼の望みの実現は露と消えた。死出の道は、もはや避けられそうにもない。
死は、恐れてはいない。幾度も死を覚悟したのだ、それはもはや今更だった。
だが、望みを果たせないままには死にたくはない。
業を背負った彼にとって、何もできずに死ぬことだけが、死ぬよりも嫌だった。
だから、最期に笑ってみせた。
不敵に、笑ってみせた。そして、頬を伝う涙。
「まだ、俺は生きねばな」
笑って、泣いて、そして男は逝った。
刑場の露と消えた男の生き恥は、どこまでも高潔であった。