花とご対面
三十路手前の独身男、白川小太郎のもとに一人の少女が初夏の風と共に現れた。見かけだけで判断してみると年のころは十代後半くらいだろうか、少女の雰囲気は若者特有の活気があり三十路手前の小太郎には眩しい。
少女にばかり気を取られていたがその隣にいる見慣れた人物が視界に入った。小太郎の兄だった。彼は少し困ったように笑うと「元気か?」と声をかけた。
「まあ、ぼちぼち」
「なんかお前老けたか?」
笑いながら冗談混じりに言われた言葉は小太郎のデリケートな心に刺さった。人は自分の変化には鈍いものなのだなとぼんやり思った。
「毎日毎日働きづめだったからな……」
「……ブラック企業だったのか?」
「まあな」
「そりゃ、ごくろうさんでした」
「いえいえ。で、何の用?」
尋ねるとまた困ったように頭を掻きながら兄は「実は……」と切り出す。
「しばらくの間娘を預かってほしいんだ」
「は……何で」
「いや会社の都合で引っ越さなきゃならないんだがな、娘はここから離れたくないらしくてな」
小太郎は疲労でまともに働かない頭を必死に働かせた。考えた末に小太郎は断ることを決めた。
「悪いけど他を当たってくれないか」
断るのは些か躊躇いがあったが年頃の女の子を家に入れるのには抵抗がある。別に小太郎に下心などは決してないが一緒に暮らすのはいろいろと問題があると思う。厄介事はごめんだ。
それに今自分は体調を崩してしまいやっと会社をやめることができたのだ、所謂無職状態だ。
「そんな……頼むよ!お前しか頼れる人間いないんだよ!」
「知らねぇよ!てか玄関前で騒ぐなよ、取り合えず中に入ってくれ、汚いけど」
「ああ、申し訳ないな」
二人を中に入れる。
娘の方は物珍しげに周りを見ているが兄はすぐに腰を据えて両手を床につけた、そして物凄い勢いで頭を下げた。実の兄からの初めての土下座に小太郎は驚きで何も言えずにいた。
「頼むよ!この通りだ!お前を困らせることは分かってる、生活費はちゃんと払う!勝手な都合で申し訳ないと思っている!だが本当にもうお前しか頼れる人がいないんだ!」
娘は土下座する親を見て何を思うのだろうか。少女の顔を盗み見たが凛とした表情からは何も読み取れなかった。取り合えず頭を上げてくれと頼むが元来頑固な兄だ、なかなか引いてくれない。
そして娘が親の隣に音も立てずに正座した。真剣な表情で小太郎を一瞥した後父親と同じく頭を下げた。親子共々の土下座に小太郎は胸が痛んだ。こうまでされて断れるほど小太郎も鬼ではない、決心は意図も簡単に揺らいでいた。
「私からもお願いします、ここに居候させてください」
長い長い沈黙の後、小太郎が下した決断は。
「……ああ、うんどうぞ」
半ばやけくそで小太郎は親子に言った。表情が死んでいる小太郎とは対照的に親子の顔には安堵と喜びが浮かぶ。二人は手を取り合って喜んでいる、喜んでもらえて何よりだと思う。
「ありがとう、小太郎!このご恩は一生忘れない!」
「いや、逆に重たいから。あと土下座やめてよ、兄貴の土下座なんて見たくない」
「あ、ああすまないな。ほらお前もお礼を言いなさい、雨音」
少女の名前は雨音というらしい、少女は父親の言葉に頷いた後先程の真剣な表情とは一変し朗らかな笑顔で小太郎にお礼を言った。
「ありがとうございます、叔父さん」
「叔父さん、かあ……」
自分ももう叔父さんと呼ばれる年になったのかと思うと年月の流れとは残酷なものだと思わざるを得ない。叔父さんと呼ばれて嫌なわけではなかったが何だか違和感を覚えた。
その後三人でこれからのことを話した後親子は去り際に深くお辞儀して帰っていった。小さくなっていく後ろ姿を見送りながら兄の心中を察した。本当は娘も連れて行きたかっただろう、一人で親元を離れされるのは心配で堪らないだろう、それはそのはず大事な一人娘なのだから。
「本当にこれでよかったのか……」
疑問ではあるが約束してしまったものは仕方がない。雨音が我が家にやってくるのは三日後、それまでにこの散らかり放題の部屋を片付けておかねばならない。
部屋の散らかり具合を見ているとやる気は下がっていく。やらなければならないと思いつつも抗いがたい眠気が小太郎を布団へと誘う、赴くまま彼は布団の中へと入っていく。もう何年もこんなに自堕落な生活は送っていなかった。長い長い人生だ、たまにはこんな生活も悪くはないだろう。
部屋の片付けば明日やろう。今日はその明日に備えてゆっくり眠ろう、小太郎は瞼を閉じて次の日の朝まで眠っていた。