自覚
日曜、僕は掛かりつけの眼科に行った。
家から10分そこらの最寄り駅に行き、15分ほど電車に揺られ、降りた駅前5分のところにある。
この眼科にはもう10年ほど通っている。治田医師という30歳ほどの男性がやっているのだが、付き合いが長い為か、待合室で待っていると『総ちゃんの番だよー』と声が聞こえるのだ。きっと共感してくれる人もいると思うが、小さい頃からの付き合いの医師や床屋、美容院なんてものはかなり質が悪い。他人のいる前で、さっきまで隣でしかめっ面で読書をしていた近寄りがたい雰囲気バリバリの男が、『総ちゃん』と呼ばれ立ち上がるのだ。
頭のなかで、こんどこそ止めてもらおうと思った矢先だった。
「総ちゃんの番だよー」
周りの、『誰だよ』と見回す視線が錯綜する。
その気まずい空気を振り切るようにすっと立ち上がり、好奇の視線を避けるように診察室の扉を出来うる限り早く開けて、体を滑り込ませた。診察の後にまたあの待合室に戻るのかと思うと毎度のことながら正直裏口を探したい衝動に駆られる。
中に入ると満面の笑みで治田医師が頬杖をついて待っていた。
「総ちゃんよくきたね、いつも通り虫の居所が悪そうな顔しているね。」
まるっきり毎回同じセリフのやりとりなので、無視してイスに座った。
そんな僕の様子をこれまた満面の笑みで眺め治田医師は頷いた。
「挨拶はここらへんにして、どうだい最近の調子は。」
「いいつけは守っていますし、時に支障はありませんよ。」
「あれま、随分と他人行儀じゃないか。昔はあんなに従順で、無垢な笑顔のかわいい子だったのに。」
あんたのせいですよ。と頭の中で毒づいて「昔のことです。」と答えた。
「そうだったかな」とペンで頭を書きながらカルテに目を落としている。
「少し目を見せてもらってもいいかな。」
「わかりました。」
これも10年通っていれば慣れたものである。
機材のある場所までいってイスに座って上を向く。
この検査の間、治田医師が何をしているかは何をしているのか全くわからない。
目の前が、まぶしいと感じる一歩手前の白一色になるのだ。
この時間が僕は実は好きだった。寝ている時の次くらいに無防備な状態にも関わらず、この心地よい白に全身が包まれている感覚に、この世とも思えない感覚を抱いているのだ。
10分ほどのこの時間が、僕にはとても心地よい。
「うん、もういいよ。」
治田医師の声と共に視界が開けた。
あの白がいなくなってしまった。元いた場所に帰ってきてしまったのだ。
「目の調子は良くも悪くも変わりないね、いつもの出しておくからまた2週間後にきてね。」
「わかりました。」
気まずい空気の待合室に戻り、視線を感じながらも席について読みかけの本に噛り付く。
薬をもらい、会計を済ませる。
自動ドアを開け、外に出た瞬間に風が吹いた。
まだ冷たさの残る風は、向かい風。現実に向かう僕に追い討ちを掛けるかのような風だ。
少し首を潜めて駅に向かって歩き出す。
電車に乗ってからふと『夕飯なににしよう』と思った。
冷蔵庫の中身を思い出して、チャーハンにしようと思い立った。
足りないものを買うために、電車を降りて駅前にあるスーパーに寄った。
通いなれたスーパーなので、何がどこにあるかは熟知している。
シーチキンとにんじん、ピーマンを順に籠にいれてレジに向かう。
レジの手前に陳列されているチューインガムを籠にいれてレジを通る。
会計を済ませている時に隣のレジを見た。
隣のレジで会計をしていたのは、マンションのお隣さんの伊藤さんだった。
彼は大学2年生で、ここから3駅離れた獣医大に通っている。
引越しの挨拶の時から、何故かとっても親しくしてくるのだ。
「総ちゃんじゃないか。」
そうだった、この人もこう呼ぶのだった。
初対面で下の名前を名乗ってはいないのに、次の日には総ちゃんと呼ばれていたのだ。
「伊藤さん、こんにちは。」
「はい、こんにちは。」
挨拶に命いっぱいの他人行儀を詰め込んだにも関わらず、この人には通用しないみたいだ。
にやにやしながら近づいてきた。
「総ちゃんも買い物かい?お互い一人暮らしの身、侘しいね。」
「僕は自由でいいと思いますがね、気楽でいいですよ。」
「またまた、強がっちゃって。今度夕ご飯でも一緒しようね。」
「ええ、機会があれば是非。」
「はは、うんまたね。」
「はい。」
お互いその機会はないだろうと思っているようなやりとりを終えて、伊藤さんと別れた。
いや、伊藤さんならそうは思っていないかもしれないけど。
部屋についてから風呂を炊いて、夕飯の支度にとりかかる。
一連の作業が板についているのが、なんとも物悲しい。
料理は嫌いではない、最初の頃は食べられたものではなかったが、徐々に上達していくのもわかり、いつのまにかレパートリーも増えた。
上機嫌でフライ返しをしていると電話が鳴った。
僕の家の電話が鳴る事は本当に稀だ。学校の連絡網に携帯電話を載せるわけにもいかないので、仕方なく設置しただけだからだ。
「もしもし、冴木です。」
『もしもし、藤沢です。このような時間にすいません、確認したいことがありまして。』
藤沢さんは、税理士だ。冴木グループの専属税理士だった人で、遺産の管理をしてもらっているのだ。
そう、僕は冴木グループの跡取り息子だった。両親は僕が5歳の時に事故で他界している。両親が残した遺産は、人がよっぽど豪遊しないかぎり一生暮らせるであろうほど高額であった。当時5歳の僕が莫大な遺産を相続する際に、一族の専属税理士が管理をすることになったのだ。遺産の他にも、会社を継ぐことも出来た。だが、5歳の僕にそんなことが出来るわけがない。よくはわからないけれど、幹部会議で僕が18歳になるまでは幹部の合議制で社の方針を決めていくことに決まったらしい。そして18歳になったら、僕が継ぐかどうかを決める事が出来るようだ。正直今すぐにでも興味がありませんとお断りを入れたいところではあるが、税理士である藤沢がそれを良しとしなかった。
『16歳になられた事ですので、総さんの口座から引き落としをする際にその都度私に確認を取らなければならない今までの体制を見直そうかと思いまして。』
「そうですね、これから色々入用になるかもしれませんし、そうしてもらえるなら助かります。しかし、上限がないとゆうのも不安なので、藤沢さんのほうで上限を設定してもらえませんか。」
『そうですね。では、口座を二つに分けます。片方には私の手が離れた時の為に遺産の大部分を入れておきます。もう片方のほうは普段入用な場合に引き出せるようにします。』
「はい、そうしてください。」
『では、夜分に失礼しました。ではまたいつもの日にご連絡差し上げます。』
電話を切ると、自分の置かれる現実を嫌でも実感した。
両親は死に、親族は誰もいない。
5歳、一人この世界に取り残されてから11年たったのに、僕は孤独である事実を頭では理解していても、実感をしたことはなかったのかもしれない。
一人暮らしを始めて4年、特別な事など一つも思い出せないこれまでの日々に、何故かこの日は言いようのない気持ちを抱いた。
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