第十五話 もうお産の話になっちゃっていいのか
残暑厳しく秋というにはまだ間のある頃、お嫁さんが産月に入ってから、男と老人は朝と夕方、川原に行き、対岸を見るのが日課になった。
その日の朝、漸く待ちに待った黄色い旗が見えたので、老人は男を従え、勇躍と川向こうの屋敷に出掛けた。
産気付いたら屋敷の人が川原に旗を立てて合図する手筈になっていた。
老人はこの日に備えて毎日身体を鍛えていた。
往年の辺境の騎士ジロドーが川向こうに行くのに、作男に背負われて行く訳にはいかない。
そして今日は杖を持ってこそいるが地面を軽く突くだけで、身体を確実に運んでいるのはその両足だった。
よくぞ、ここまで回復した、と男も流石に脱帽せざるを得ない。
元々よほど鍛えた身体だったのだろう。
少し前、老人を乗せて運ぶ車を作ろうかと提案したら、頭に杖を振り下ろされた。ビュッと風切る音がした。
杖は頭の上スレスレで止まった。寸止めである。
男は頭の上で止まった杖を指で摘まんで床に下ろした。
川のほとりを上流に向かって歩く老人の後ろを、またしても大量の餅を背負った男が付いていく。
荷物があるとはいえ男がへばる程、老人の脚は速い。
川は広く深い。
橋があればな、と男は思う。
上流の川幅の狭くなった所に橋はある。
男はその少し手前で強引に泳ぎ渡る事もあるが、それでも川向こうの屋敷までは朝発って夕方近くになる。
途中で二度休憩した。
老人は歩きながら水を飲み、常に歩調は変わる事なく、休憩中も座る事がなかった。
休まなければならなかったのは大荷物を担いだ男の方だった。
日が沈む前に屋敷に入ったが、まだ生まれてないと言う。
難産なのかと身構えると、初産ですので時間がかかりますだ、と主人が老人に緊張の面持ちで説明する。
「まだお嫁さんに会えますだよ。お会いになりますだか」
老人はソワソワと奥に入って行く。
剣豪とやらも形無しだぜ、ただの祖父バカじゃないか、と男は独りで待っている。
気がつくとワカがうっそりと立っている。
「お前まで来たのか」
「別の用事だ。腹減っちゃって台所でご飯を貰ってたら貴方たちが来ていると聞いて」
こいつ背が伸びたのかな、と男は思う。
浮浪児は顔が少し細長くなった気がする。
ワカは目を細め、まるで明日の茸狩りの予定でも言うように言った。
「ここに橋をかける事にした」
「ほう……え?」
「とりあえず簡単な奴だ。緊急時は僕がこの手で落とすと言って漸く許して貰えた」
「誰に?」
「熊の騒ぎで感じたんだ。侵入者の足止めより住民の避難路確保の方が重要だ」
「そりゃ、そうだな」
「貴方も働いてね」
「おう」
老人がオロオロと戻って来て、ワカを見て、オッと挨拶して座る。
男三人の間に手持ち無沙汰な沈黙が流れる。
「来たって何か出来る訳じゃないでしょ」
「爺さんの息子の嫁さんに独りで子供を産ませる訳にはいかない」
ワカは考え込んでいる。男は付け加えた。
「邪魔って言われたらその通りだな」
「何か嫌だな」
「え」
「赤ちゃんが生まれるのは本心で嬉しいし、お母さんにもお祝いするけど、それとは別に、何か女の人って怖い」
家の奥から小さく呻き声が聞こえる。
ワカは男と老人の間に座り込んだ。
「女の人は胸やお尻どころか、いつもはどうかすると足や腕さえ見られるのを嫌がって隠すだろ。こっちも見ないように気を使ったり」
「そうかぁ?」
男は本心で答える。
この辺りの女たちは割とおおらかで気にしない方だと思う。
いや、俺はどこの女たちと比較しているんだろう。
「それなのにお産の時は丸裸で大勢の人に囲まれて、脚も大きく開いてるんだろ。恥ずかしいところもみんなに見られて」
男は顔をしかめた。
どんな格好で産むかなんて知らんよ。
そこは考えるなよ。考えても口にするなよ。
どうもこいつは年齢不相応に、まだ知らなくていいものを知り過ぎている。
いや、むしろこれがこいつの本来の年相応の反応なのか。
「目が眩むほど痛いらしいから、恥ずかしいどころじゃないだろ」
「それだけじゃなく、産む前段階があるじゃないか。普段はあんなに見るな触るなって調子なのに、見られただけで死ぬの生きるのって騒ぎも起きたりするのに、実はあんな事を、しかも自分からしたがるなんて、女の人ってすごく怖い」
予想以上にアホだった、がっかりと言うよりやっぱりだ、と男は思う。
ワカは膝を抱えて顔を伏せている。
老人は目をギョロつかせ、動く方の手を伸ばしてワカの背を撫でる。
怖がられてナンボの奴が怖がるなよ。
「その怖いと思ってるところこそ、今に心底ありがたくなる」
好きな女が出来たら分かると男が言うと、ワカは自分もその渦中の一人になるのかと思うとそれがまた怖い、と言う。
男は自分にもかつて好きな女が居たのだろうか、と考える。
実は名前も細かい経緯も分からないある女の面影がある。
思い出せるのは、この世では二度とこの人に会うことは出来ない、という事だけだ。
この人が誰だったのかを考えるといつもひどく哀しくなる。
だが、同時に心が暖かくもなる。
自分と関わった為に不幸にしてしまったのだろうか。
だが自分はこの人にきっと幸せにしてもらったのだろう。
ここに来る前の事で思い出せるのは、この人の面影だけになってしまった。
だがこの面影だけは誰にも教えないし忘れないだろう、という漠然とした予感がある。
グーーーーッ
突然の大いびきだった。
女の底知れない恐ろしさに気付き思春期の憂鬱に耽っていると思ったら浮浪児はそのまま眠り込んでいる。
老人は眉間にシワを寄せている。
食い気に色気の次は眠気かよ、忙しいこった、と男は思う。
するとワカは急に顔を上げた。
「ジロドー、将来もしお嫁さんに好きな人が出来て相手の人が赤ちゃんの良いお父さんになってくれるようなら、泣いちゃダメだよ。笑顔で送り出すんだよ」
老人は首を振ってワカの頭をポンポンと軽く叩いた。




