第十四話 誤解され、もてなされる
夏というにはまだ早いが陽射しは既に強かった。
男が水でも浴びたような汗をかいて開拓地で作業していると、向こうから杖をついた老人が歩いてくるのが見えた。
「爺さん、とうとうここまで来ちまったのか」
男が作業を中断して老人の方に走ると、老人は足を止めて首を振り、来なくていい、と手を振ろうとするが、杖を地面から離すと転びそうで苦心惨憺している。
「無理するな、やめろ、転ぶ」
男は全速力で老人に駆け寄るが、手を出すと更に老人が嫌がるので、手前で軽く両手を広げて立ち止まる。
老人は顎をしゃくって仕事に戻れと男に示す。
散歩は近頃の老人の日課で、徐々に距離も時間も伸びている。
転んだらどうすると男は気が気でないが、老人は聞かない。
年寄りは頑固でいけない、と男はこぼすが、昔からああだと周りは言う。
座っている時も動く方の手で素振りのような動作をしている。
初めは家の庭を延々と歩き回り、徐々に家の周りになり、今日はとうとう男が新しい農地にしようと切り拓いている荒地まで遠征した。
老人は男が作業に戻る横をノコノコと通り過ぎ、その先にある建物に向かった。
以前、男が老人の納屋から引っ越そうと建てた小屋で、結局引っ越すのはやめたが例の熊の毛皮だけが置いてある。
おいおい、マジか。もしかして今更せめてもの仕返しに毛皮をひっぱたこうとでも言うのか。
男はまたしても作業を中断し、老人と小屋の側に小走りに近寄った。
小屋は扉が固く閉じられている。
高床のお堂のような小屋は入り口まで階段がある。
老人は小屋の前で立ち止まり見上げていたが、杖を地面に置き、不自由な身体で階段を這い上がり始めた。
男は老人の背後で階段に片足を掛け、手を広げて老人が滑り落ちたら助けようと身構えた。
男なら一足で上がる階段を老人はゆっくり登り、扉を開けろと男に顎をしゃくる。
男が老人の肩に腕を回しながら扉を開けると、正面に例の熊の毛皮が現れた。
毛皮は顔をこちらに向けて安置してある。
老人の一人息子の命を奪い、息子の嫁の心に深い傷を残し、老人の身体の自由を奪った熊は、その魂魄が荒れ狂って再び災いをもたらすのを畏れるようにこうしてひっそりと祀られている。
もっとも熊の魂は毛皮ではなく男の中に居て、男が老人の側から離れがたく世話をしたい衝動にかられるのは、死んだ熊がそう仕向けているからだと、ワカという浮浪児は言う。
老人は熊の空っぽの眼窩を黙って眺めている。
本当は俺なんかが食っちゃいけなかったんだ、と男は思う。
爺さんが自分で留めをさせれば良かったのに、山で腹を減らしていた自分が、死んだばかりの熊を見つけて食っちまったから、爺さんも腹の虫が収まらないんだ。
やがて老人は、ふん、と鼻を鳴らしただけで、またしても時間をかけて階段を下りた。
手を出すと怒られるのが分かっているから出さなかった。
その後は男が作業する横でウロウロと歩行訓練を続け、小屋を二度と見る事もなく、作業を終えた男と一緒に家に帰った。
孫が生まれるまでには川向こうの屋敷に行けるようになりたいのだな、と男は思う。
老人の息子の嫁は大きなお腹を抱えて、村のはずれの川の対岸の屋敷に住み込みで奉公している。
ほんの対岸なのに、橋がないので、川幅が狭く歩いて渡れる上流まで遡ってから戻らなければならない。行くには丸一日かかる。
「そんなに行きたきゃ俺がいつでも背負って連れて行くのに」
剣豪が鍛錬し技を磨くのは誰も止められない、と評したのはワカだ。
そりゃ怪我する前だろ、と男は思う。
いまや老人は片手しか利かず、その片手で杖を握らないと歩けない。
老人の家にある大剣は、腕力だけが取り柄の男でも両手で握らないと振り上げられないような代物だった。
「もう飯を食うのも一苦労なんだからおとなしくしてて欲しいよな」
熊に顎をやられた老人は固い物が噛めないので煮崩したような物ばかり啜る。
口も曲っているから決まって少々こぼしてしまう。
掃除するのは男だが、食欲があるのは良い事だ、と思う。
ワカはこの頃あまり顔を出さない。
月夜の晩に木の上から民家の屋根に飛び移っているのを遠目に見た事がある。
この村に住み着いている訳ではないのかもな。
あの野良猫のテリトリーはこの村だけに留まらずもっと広いのかもしれない。
川向こうの屋敷には老人の使いで時々ささやかな心づくしの届け物をする。
男は、仕事中の老人の嫁の邪魔にならないよう、そっと渡して帰れろうと思っているのに、必ず応接間に通されその家の主人が出て来て丁重に挨拶され、世間話ついでに老人の近況など聞かれる。
「貴方さまほどの腕であれば、この時勢、どこなりと召し抱えられ、功を上げ華やかに名を立てるのも容易でございましょうに、目先の欲でなく、あのジロドー殿の内弟子になられる辺り、その志の高さは誠に感服いたしますだ」
いや、俺はただの作男だが、と男は内心冷や汗をかく。
振り回すのは鋤や鍬ばかりで、剣どころかナイフの一つもマトモに使った事はないぞ。
そこへ老人の嫁が、目立って来たお腹で見違えるほど顔色の良くなった顔に笑みさえ浮かべて、男がこれまで見た事もない上等な茶器で茶を運んで来るので多いに緊張する。
これは俺でなくあの爺さんに出してるんであって、俺は爺さんの代わりに飲んでるんだ、本人じゃ口のハタからこぼすしな、と男は思う。
二度目の時は茶を出す時に小さな声だが確かに「ドウゾ」と言った。
思わず屋敷の主人を見ると、鼻の穴を広げて頷いている。
話せるようになったのを一刻も早く老人に伝えたくて、その日は夜道を駆け通して戻った。




