衝突(3)
――朝。
教室のドアの前で、不思議に思った。昨日とは明らかに違う光景――何の特別なこともない、いつもの教室の風景が、目の前に広がっていたからだ。
自分の席を見ると、隣の席に蒼嗣はいなかった。
謝ろうと勇んできた気持ちが挫かれ、岬はため息をついた。
ぼんやりとその場に佇んでいると、後ろから背中に一発平手打ちをくらう。
「痛っ!」
涙目になって振り向くと、晶子だ。
「なに呆けてんの?蒼嗣くんなら職員室だよ?」
ニヤニヤと意味ありげな笑みを浮かべている。
「えっ、べっ、別にあたしはっ」
岬は、蒼嗣のことを考ええていたことを悟られたくなくて、慌てて否定した。
平手打ちの痛みと晶子の意味ありげな笑みのせいで、少々声が裏返ってしまったが。
そんな岬の動揺ぶりに気付いたのか、晶子は高い声で笑った。
「岬ってばカワイイ!!」
面白くない岬におかまいなしで、さらに晶子は続けた。
「怒んない怒んない!岬ってば根が素直だから隠してても分かっちゃうよぉ。いいのいいの!あたしには分かっちゃったから!今確信した!!」
「何をよ!」
大体分かっているのだが、あえて聞いてみる。
晶子はニコニコしながら小声でささやいた。
「岬が蒼嗣くんに『ラブ』ってこと!」
『ラブ』のところで指と指を合わせてハート型を作る晶子に、岬は脱力した。
圭美といい、晶子といい、どうしてそう決めつけるのか。というより、なんでこうも自分は遊ばれやすいのか。岬は再びため息をついた。
「そんな岬にはとっておきの情報を教えちゃう!」
妙にうきうきとした様子で急に晶子がそう切り出す。
反論もバカらしくなって岬は黙ってそれを聞いた。
晶子は岬の耳に自分の顔を近づけると、手を添えて内緒話をするポーズでそっと言った。
「蒼嗣くんね。ここよりひとつ先の駅の近くのアパートで一人暮らししてるんだって」
「へぇー。」
岬は驚いたのだが、とっさに口を突いて出たのはそんな間の抜けた台詞だった。
そんな岬の言葉に、晶子は頬を膨らませた。
「ちょっと岬!もっと驚きなさいよねー。」
「あ、ごめん。だって珍しいと思ったから。――で?」
「で?って。もう。面白くないんだからぁ。それだけだよ。好きな人の情報をひとつでも多く知りたいと思うのは恋する女の子の常識じゃない?」
「うーん?」
岬はあいまいな返事を返した。
「ま、いいか。岬らしいといえば岬らしいけどね。」
晶子はため息まじりに笑う。
そして付け加える。
「あ。安心して?あたしの中で蒼嗣くんは単なるアイドルだから。岬と奪い合おうっちゅー気なんか全然ないからね。だってあたしには重くんがいるんだしー。あ、ホラ。重くんは蒼嗣くんとは別のかっこよさがあるでしょー?」
「はいはい。ごちそうさま。」
岬が横柄に答えると、晶子は不満げである。
『重くん』とは晶子の彼氏で、岬達より一学年先輩でバスケ部所属の、甘いマスクが売りの好青年である。さすが面食いの晶子の彼と納得できるほどのかっこよさがある。男女問わず同学年にも後輩にも優しいスポーツマンだ。
晶子の彼氏自慢にひっかかるとしばらくおノロケを聞かされるハメになる。それは勘弁して欲しかった。
「ナニナニ?どうしたの?」
そんなところにタイミング良く圭美が現れる。助かった、とばかりに岬は目を輝かせた。
「ねえ圭美、また晶子が高島先輩とのあれこれを聞いてもらいたいみたいよ?♪」
岬がおどけていうと、圭美はとたんにイヤそうな顔になる。圭美も何度も被害(?)にあっているのだ。
「晶子ってば、またなのー?」
岬と圭美のやりとりに、晶子がぷぅっと再び頬をふくらませた。
「もぉー、岬も圭美も、少しは聞いてくれたっていいじゃんよぉー」
そう晶子がうらめしそうにつぶやいたとき、
「あ、それよりもさ」
圭美が思い出したように言った。
「あたし、体育の鎌田に伝言頼まれてたんだった!岬、あんた体育の連絡係だったよね?明日の授業のことで手伝って欲しいことがあるから至急職員室に来てくれだって」
「うそっ!それを一番に言ってよっ。あの先生、怒ると怖いんだから!」
岬は慌てた。
「いってらっしゃーい、がんばってねぇ」
圭美と晶子にひらひらと笑顔で手を振られつつ、教室を飛び出した。
職員室のあるのは岬たちの教室のある階のひとつ下だ。岬は夢中で階段を駆け下りた。
階段の先の廊下を左に曲がろうとしたときだった。
岬は『何か大きなもの』にぶつかって、尻餅をついた。
「あたぁ~~!何よ~~~」
今日はツイてない日かもしれない。
そう思った岬は『ぶつかったもの』を確認して、それを再認識することとなった。
見上げた先には眉間にしわを寄せている蒼嗣の姿があった。
――謝らなきゃ――、そうは思ったのだが……
岬を一瞥しただけで、その場を去ろうとする蒼嗣に対し、岬の口を突いて出たのは――
「ちょっと!何も言わずに行く気?!」
だった。
行きかけていた蒼嗣は、その言葉に歩みを止める。
ゆっくりと振り返った蒼嗣は、さらに不機嫌そうにため息をつく。
「もう関わるなって言った筈だ。俺も――お前とは関わりたくない」
ぼそりとつぶやく。
そう口にした蒼嗣の顔を見て、岬は動きを止めた。
表情が、ないのだ。
その顔に浮かぶののは怒りでも嫌悪でもなく、ただの無。
こんな表情を人がするのを、岬は始めてみたのかもしれない。
人の表情がないということは、こんなにも恐ろしさを感じるものだったのかと岬は思う。
その場の凍りつくような雰囲気に、しばらくは、岬も次の句を継げなかった。
放課後――、岬は一人で歩いていた。
部活が終わり、集団で帰る途中、忘れ物をしたことに気づき、学校に一旦引き返したのだ。
一緒に歩いていた圭美や他の友達には、先に行ってもらったので一人だった。
お目当てのものを見つけて帰る時には、もう校舎内は人通りもまばらだった。
そんな時、ふと岬の視界に映ったのは――。