心が動くとき(5)
土曜日―― 学校は休みだったが、父と姉は仕事で、岬は母が眠る墓の前に一人で来ていた。
今日は幼い頃に亡くなった母の月命日。母の生前の願いにより、一年に一度の祥月命日の他、半年に一度の月命日、特に用事が無い限り家族で母の墓参りに行くことにしている。だが、今月はどうしても三人の都合を合わせることができなかった。来月以降であれば行ける日もあるのだが、いつもその月に行っているものを遅らせるのは何だか母が寂しがりそうに思え、今日は岬だけが参るということにした。
墓前に手を合わせ、瞳を開いた岬はそのまま空を見上げた。
「秋の空気だなあ」
岬は呟く。
この空気は割と好きだ。様々なものを浄化するようなひんやりと凛とした空気。そういえば、母もこの秋の空気が好きだったと姉から聞いたことがある。
「あたし、お母さんに似てるところ、あるかなあ」
家にある写真を見ると、容姿は母親に似ているところもあるにはあるが、どちらかというと岬は父親似だ。
しばらく母へと思いを馳せその場に佇んでいた岬だが、急に吹いてきた冷たい風に体を震わせた。
「夕方になっちゃったし、ちょっと寒くなっちゃったなあ。……かえろっかな」
そう一人呟き、手桶に手を伸ばした。
「また、来るね。お母さん」
岬は微笑んだ。
手桶を返した後で石畳を歩きながら、コートのあわせを胸の辺りで引き寄せる。
お寺の門を一歩出たところで、岬は足を止めた。
数メートル離れた場所に、墓地が良く見える少し開けた場所がある。そこに一人佇む人物……。
『蒼嗣……!』
心臓が大きく跳ねる。
気づくと岬は引き寄せられらるようにそちらへと歩みを進めていた。
蒼嗣との距離がだんだんと縮まるが、相手は墓地を見つめたまま、微動だにしなかった。その表情が確認できるほどに接近して――岬ははっとする。
その横顔は、いつか学校の屋上で見た表情にそっくりだった。ともすれば消えてしまいそうな、弱弱しく青白いその顔に、先ほどとは違う理由で岬はどきりとした。
「誰か、ここに眠っているの?」
なんとなくそんな気がして、岬は声をかけた。
声をかけてしまってから、また余計なことをしたと後悔する。
『またうるさがられるだけだよね』
そう思っても口に出してしまった以上、もうその言葉は取り消すことはできない。岬は半ば諦めの気持ちで、蒼嗣の反応を待った。
だが、蒼嗣が口にしたのは意外な言葉だった。
「お前は……、母親――が眠ってるのか?」
「うん。―― って、なんでそのこと――」
呆然と聞き返す岬。
蒼嗣がまともな返事をしたことにも驚いたが、それよりも驚いたのは蒼嗣が、岬が母を亡くしていることを知っているということだった。
「―― 教室で……話してるの、聞いたから」
ぽつりと、蒼嗣が言った。
「あ、ああ、そっか。あの時――」
そういえば、教室でクラスメイトが岬の弁当を見たことに端を発して母の話題になったとき、その直後に蒼嗣と目が合っていたことを思い出す。その時、蒼嗣もちゃんとその話しを聞いていたのだと知り、驚く。
『でも、そんなちょっとしたことを覚えててくれるなんて意外――』
何かと無視され続けていたように感じていた岬は、何だかふわふわと心が浮いてしまうような落ち着かない気持ちで蒼嗣を見上げた。
「今日は母の月命日でね。といってもここに来るのは毎月というわけではないんだけど、半年に一度ね」
聞かれてはいないが、蒼嗣との時間を引き延ばしたくて岬は口を動かした。蒼嗣も珍しく黙って岬の話に耳を傾けているようだった。
そんな中、
「この間は……悪かった」
いきなり謝られ、岬はきょとんとした。
「この間?」
「『人生経験としては少なくともお前よりはよほど豊富』なんて、ずいぶん偉そうなこと――、言ってしまったから」
その言葉に、岬も「ああ」と納得する。一ヶ月ほど前に屋上で言い合いになったときの話だ。
まさか今になってそんな話が出てくると思わなかったから、とても驚いた。
『もしかして、意外にもそのことずっと気にしてたりして……』
上目遣いにちらりと蒼嗣を見上げる。蒼嗣の表情が何となくではあったがやわらかい気がする。
「あれね。まあ、確かにカチンとはきたけど――、あたしも留年、のこととか誤解されるような言い方した気もするし――」
蒼嗣に謝られるという珍しい事態に、岬も何となく居心地が悪いようなむずむずとした気持ちになっていて、うまく言葉が出てこない。
『あーもー、そんな風に言われたら、もうそんなこと、どうでもよくなっちゃうじゃないかあ』
あの言葉に自分が傷ついたのは確かだ。その他にも蒼嗣がらみで色々頭にくることもたくさんあった。でも今の蒼嗣の態度で、その全てを帳消しにしたい気分になってしまう。
岬はため息をついた。
「ってか、もうお互いにあの時のことはチャラでいいよね?」
岬は悪戯っ子のように笑って肩をすくめ、言葉を続ける。
「どんな人だって他人に言えないようなつらいこと、少なくとも一つや二つは抱えながら生きてるんだと思う。それがたくさんあるか、少しかっていう違いはあるんだろうけど。それを不用意につつかれたら誰だってイラっとしちゃうよね。あたしもあの時は、売り言葉に買い言葉みたいな感じで刺々しい言い方して、ごめんね」
岬の言葉に蒼嗣が珍しく表情を大きく動かし、目を丸くした。
「お前は――つらくは、ないのか?」
気遣うような言葉を紡いだ蒼嗣に、岬は思わず息を呑んだ。
「何が?」
「何も知らない他人に、母親について言われること……」
蒼嗣は、この前岬がクラスメイトに言われたときのことを言っているのだ。
「大丈夫だよ。みんな悪気はないんだし。まあ、なんと言うか――慣れたっていうのもあるかな」
岬は笑った。そんな岬を蒼嗣はしばし目を細めて見つめた。
そして――
「お前って、明るい―― な」
おもむろに蒼嗣が言った。
「そう?」
きょとんとして岬は首をかしげる。
「……色んなこと、あったはずだよな。―― お前にも」
視線だけは岬に、だが、まるで独り言のようにどこか遠くを見つめるような瞳で蒼嗣は言葉を紡いだ。
「なのになぜ……お前は……」
蒼嗣の視線が真っ直ぐに岬を捉える。
岬は時が止まるかのような不思議な感覚に襲われ、息をするのを一瞬忘れた。