接近(2)
新学期が始まってから三週間が過ぎた。
夏の暑さにも少しずつかげりが見え始め、岬たちの通う私立桜ヶ丘高校では、十一月の学園祭に向けての取り組みが始まろうとしていた。
蒼嗣は、クラスの誰ともほとんど関わりを持とうとしなかった。
最初のうちこそ、様々な意味で腫れ物に触れるように扱っていたクラスメイトたちも、今では慣れて特別扱いはしなくなっていた。というより、関わろうとする者がいなかったというのが本当のところだ。皆が、蒼嗣自身が放つ、触れられたくないオーラのようなものを感じ取っていたのかもしれなかった。
そんな中で岬は、そんな風に割り切れずにいた。あれからまともに口もきいてはいないのだが、ちょこちょこと岬を苛立たせるような瞬間があった。自ら進んで孤独を選択しているようなところが余計に岬の心を苛立たせていた。
あの時に見た、思いつめた蒼嗣の表情がどうしても忘れられないのだ。
普段は鉄の仮面で覆われたような蒼嗣の、あの時にしか見られなかったひどく人間臭い寂しそうな表情。
あんな表情をする人が、自分から進んで独りを選ぼうとすることが、どうしても腑に落ちなかった。
そんな時、学園祭――さくら祭の委員決めが行われることになった。
高校生ぐらいになると、たいていの委員はなかなか決まらないのが常だ。中でも『中央実行委員』という委員が最も決まりにくい委員だった。
この高校では学園祭はほとんど教師の手を借りず、自分たちで企画運営全てを管理するようになっている。そのため、各クラスから二名ずつ選出される『中央実行委員』は中心となって各方面に動く委員で、最も忙しく、何度も集まりがあったりとかなり面倒で、毎年この委員の選出にはどのクラスも苦労しているのだ。実行委員になる者は、よほど仕切ることが好きな物好きか、くじで仕方なく選ばれてしまった者が大半であった。他の人と同様、岬としてもなるべくなら遠慮したいところだった。
予想通り今年も中央実行委員への立候補はいなかったため、くじ引きで決定することになった。
「じゃあ、これからくじ引くから並んでー!」
黒板の目の前の教卓に、ダンボールで作られたくじ引きの箱が置かれている。それを手にしながら学級委員がクラスのみんなに声をかける。皆、かったるそうにしながらも、思い思いにお喋りなどしながら、くじの箱に向かって並び始める。そのうちに、机と机の間に少しずつ長い列が作られていった。
くじはどうやら、中身が色の縁取りをした紙を引くと『当たり』らしい。色がついているかどうかでクラスが騒然としていた。
そんなざわめきの中、隣の蒼嗣は無言で文庫本を開いている。
以前ちらっとどんな本を読んでいるのかと覗いてみたのだが、難しい漢字の羅列に岬は目眩がしてきてしまい、それ以上見るのを断念したのだ。今日も同じような小難しい本を読んでいるようだった。
「並ばないの?」
自分も立ち上がりながら、つい口を突いて出てしまった言葉に、とっさに岬は両手で自分の口を押さえた。
本を読んでいた蒼嗣がページを繰ろうとしていた手を止め、目だけ岬の方を見る。その顔は感情を映してはいなかったが、声をかけられたことに対して快く思っていないのが伝わる気がした。
一瞬ひるんだ岬だったが、一度言葉を口にしてしまった以上、後には引けなくなってしまう。
「まさかくじ引きに参加しないわけじゃないでしょうね?一人だけ逃げるなんてずるいんだからねっ!」
心の中でストップがかかっているのと裏腹に、岬の口は勢いに乗った。
「逃げる?」
蒼嗣を纏う空気がさらに鋭くなった気がして、岬は思わず一歩後ろに引いた。
その瞬間、わあっ!という歓声とも悲鳴ともつかぬどよめきが黒板の方で起こり、岬ははっとしてそちらを見た。すると圭美がなんともいえない苦笑いを浮かべている。どうやら一人目の色つきを引いてしまったらしい。
岬は圭美の方に駆け寄った。そのついでに自分も一枚引く。中身には色がついていなかった。
「圭美ー、大変だねー。頑張ってっ」
岬が声をかけると、
「あー、その顔は、面白がってるなー?」
そう言って、圭美は笑いながらも悔しそうに膨れた。
「でもさあ、圭美なら適任じゃない?」
横から寄ってきた晶子が口を挟む。
しばらくして、
「これで全員引いたー?」
学級委員がたずねると皆がうなずく。
だが、これまで色つきを引いた者は圭美しかいなかった。
「えー?まだ一人しか出てないよね?」
そう言って怪訝な表情でくじ引きの箱の中を覗いた学級委員は、色のついた紙を一枚、中から引き出して叫んだ。
「ここに一枚あったよ!――誰か引いてない人がいるよ!」
岬には一瞬にしてそれが誰なのか分かってしまった。
しばらくして他のみんなもそれが誰なのか気づいたようで視線が蒼嗣に集中する。
だが、蒼嗣に対して何か言える者はおらず、不自然な沈黙が流れた。
岬は蒼嗣の方を見る。
この状況に気づいているだろうが、蒼嗣は相変わらず無表情で文庫本を広げたままだ。
蒼嗣はもともと極度に人と関わることを嫌っている。それなのに中央実行委員なんて荷が重いのではないだろうか。
人と関わることが嫌いではない岬だって委員となると嫌なものなのだ。ましてや人嫌いの蒼嗣には無理な話ではないのか……。
そこまで考えて、岬は勢いよく手を挙げて叫んだ。
「あのっ!」
いっせいに皆の視線が蒼嗣から隣の岬へと移る。
「あ、あたし!委員やってもいいよ! ――だって、中央実行委員なんて蒼嗣には――、きついんじゃないかな!?」
そう言いながらちらりと蒼嗣を見ると、驚いた顔をしていた。それは、今まで見せたことのない『素』の表情のような気がした。