接近(1)
一瞬、この世の者ではないものを見てしまったのかと、心臓が一瞬大きく飛び跳ねた。
よくよく目を凝らしてみると、蒼嗣が電気の点いていない薄暗い階段を、一人で上がっていくところだった。
ここは三階。この上は屋上である。
あまりにも青白い顔をしてふらふらと上っていくものだから、岬はつい気になって柱の影に隠れて蒼嗣の消えた階段の方を凝視してしまった。
『別に、あいつが何しようとあたしには関係ないじゃない。もう関わるな、って二度も言われちゃったし』
そう心の中で納得させようとしても、心のどこかが落ち着かない。少し躊躇したものの、気になる気持ちはおさまらない。
『あーもー!!しょうがないじゃん、気になるんだからっ!』
そう心の中で叫んで、足音を立てないようにそっと階段を上がって行く。まだ日は落ちていないから真っ暗ではないが、それでも端の方には夕日が落とした影が薄暗い闇を作りつつあり、小さい頃から暗闇が苦手な岬は、緊張と恐怖で何度かごくりと唾を飲んだ。
上がり切り、目の前の扉に付いている金属製のドアノブを回すと、夕日で紅く染まる世界にたたずむ蒼嗣が小さく見えた。
そっと少しずつ近づいていくと蒼嗣の表情が次第に見えてくる。その表情に岬は、ぎょっとした。
蒼嗣は手すりにもたれかかり遠くを見つめていた。
その横顔は殊の外青白く、ひどく思いつめたような表情をしていて、その瞳は、どこかここにはない場所を彷徨っているようだった。
――まるでそのまま、その下の大地に飛んでしまいそうな――。
そう思いあたった途端、思わず岬は走り出していた。
「蒼嗣、っ!」
名を叫んで近くに駆け寄った。
はっとしたように蒼嗣も振り返る。
「ちょ、ちょっとっ!何考えてんのよ!!何があったか知らないけどさっ!あんたまだ十七年しか生きてないんでしょ!?これからの人生が何年あると思ってんの!?その間にはきっといいことがあるよっ!だから、だめっ!自殺なんて絶対にダメだよっ!」
そう言いながら、岬は必死で蒼嗣の制服のシャツを掴んでいた。
鳩が豆鉄砲を食らったような顔というのはこんな表情なのではないだろうか。
さすがの蒼嗣も岬の勢いに押され、目を丸くして言葉を失っている。
しばらく、二人の間に不自然な沈黙が流れた。
やがて、蒼嗣は深いため息と共につぶやく。
「……俺にはもう関わるなって、言ったはずだけど……?」
「そんなの分かってるよっ!」
思わず岬は声を荒げる。
「だけどっ!そんな死にそうな顔してふらふら歩いて屋上に行くの見ちゃったら放っておけるわけないでしょ!なんかそのまま飛び降りちゃいそうで……し……、し……心配――しちゃう、じゃない……」
『心配』の言葉を口にするのに何となく気恥ずかしくなり、しどろもどろになってしまった。
「――そんな風に、見えたのか……」
蒼嗣は言った。
全くこちらの気持ちなど解しているようではない言葉だったが、てっきり『迷惑だ』とか、『俺がどこへ行こうが俺の勝手だ』とか毒づかれると思っていたから、自然と身構えていた分の、体全体の緊張がほぐれる。
「俺は自殺は、しない。――絶対に。」
そう強い口調で言った蒼嗣の横顔が、どこか寂しげで、岬はどきりとする。
強い決意の言葉だが、どこか無理やりな感じがした。
どうしてか分からないが、まるで、自分の思いとは裏腹に、理性で自分に無理やり言い聞かせているようだと直感的に感じたのだ。
岬は蒼嗣の端正な横顔をじっと見つめた。
それに気づいた蒼嗣は、居心地が悪そうに視線を逸らし、体ごと手すりにもたれ再び遠くを見つめた。
今度は『すぐに飛び降りてしまうかも』などという心配はなさそうだったが、それでも何か重いものを心に秘めたような瞳が、岬を落ち着かなくさせる。
「言っておくけど」
そのままの体勢で蒼嗣はぽつりと口を開いた。
「お前に心配されるようなことは何もないから。」
「そんなに思いつめた目をしてて何が『心配されるようなことはない』よ?」
ムカッときた気持ちをなんとかおさえながら、岬は蒼嗣を睨んだ。
「だから、――いらぬ心配をするな。迷惑だ」
やはり、きた『迷惑』の二文字が、と岬は硬く拳を握る。
「偉そうに何なのよ!?同い年の癖にやたら悟りきってないでよね!あたしだって好きであんたの心配してるわけじゃないよっ!勝手に思っちゃうんだからしょうがないでしょ。そんなあたしの心の中まであんたに指図される覚えはないよっ!」
岬は心に衝撃を受けながら、それを悟られまいと必死にまくし立てた。
遠くを見つめ続けていた蒼嗣が、急に視線を斜め後ろの岬の方に移した。
「俺はお前より一年多く生きてるんだよ。」
いきなり話が逸れた気がして岬は一瞬きょとんとした。が、すぐに気を取り直す。
「一年多く生きてるからなんだっていうのよっ。っていうか、なにそれ?……あんた留年――、」
そう言ってしまってから、軽く言ってはいけないことかもしれないと岬は両手で自分の口を押さえた。
「――だったら悪いか」
思ったとおり、蒼嗣は明らかに不機嫌そうに眉を寄せている。
「べ、別に悪いとか、そんなこと言ってないし!」
つい口にしてしまっただけなのだが、相手にとっては非常に気に障ることなのかもしれないと、岬は内心申し訳なく思っていた。だが、ついつい売り言葉に買い言葉で、口調がきつくなってしまう。
「変な誤解をするなよ?だからってお前に馬鹿にされるようなことはない。自慢じゃないが、人生経験としては少なくともお前よりはよほど豊富だ。」
その一言で、少しは悪かったと思う気持ちがどこかへ吹っ飛んでしまった。
「何勝手に『馬鹿にされる』とか言ってんの?!被害妄想甚だしいんじゃない?!」
『――偉そうに!!――なんて嫌な奴!!心配して損した!』
岬はうつむいた、怒りで体全体が震えるようだった。
自分は、確かに人生経験は浅いかもしれない。だが、それでもここまで生きてきて、悲しいことも辛いこともそれなりにあって、それでも必死に乗り越えてきたのだ。それを全て否定するような蒼嗣の言葉が、悔しくて悲しくて。もしかすると今、自分は泣きそうな顔をしているのかもしれない。
少しして、蒼嗣が息を整えるように大きく呼吸するのが分かった。
「――こんなこと、お前に話すことじゃなかった……。どうかしてた。お前の勢いに押されてつい余計なことを話した。」
岬が顔を上げると、いつもの感情の読み取れない冷ややかな顔が見えた。
「勝手に話したのはそっちでしょ!まるで私が悪いみたいに言わないでよ!」
岬への謝罪の言葉もないのが余計に岬の癪に障った。
そのまま岬のいる方とは体ごと反対側を向いてしまった蒼嗣の表情は全く見えない。
やがて、
「とにかく――、俺のことは、放っておけ。関わるな。」
やはり拒絶の言葉を口にする蒼嗣に、少しだけ岬の心は痛みを覚える。
そして蒼嗣は、それ以上は一言も言葉を発することなく岬の横をするりと通り過ぎていく。
その後姿が本当にこの世の全てを拒絶しているように見え、岬はそれ以上何も言うことができなかった。
扉の向こうに消えた蒼嗣を、呆然と見送りながら岬はため息をつく。
「これほど嫌な奴だとは思わなかった!!もう最低!」
ずっと心に溜まっていた怒りを吐き出す。
けれどそれでも、なぜか蒼嗣の思いつめたような横顔が岬の頭から離れてくれなかった。