第三章・2
―2―
牧本は署内にある喫煙場所の、黒くて硬い長椅子に座っていた。
胸ポケットから買ったばかりの煙草の箱を取り出すと一本咥え、ライターを探して背広を探る。その牧本の前にスッと安っぽいライターが差し出された。
「やめたんじゃなかったんですか」
大柄な体をかがめるようにして牧本の前に立っていたのは、牧本の下に就いている刑事で、名前を梶原といった。
煙草を咥えた口を前に少し伸ばした牧本に、梶原はライターの火を点けた。
牧本は一度深く肺に煙を吸い込むと、溜息とともに吐きだした。
「家じゃ吸わないさ」
「お子さん、もうニ歳でしたっけ?」
「今年三歳になる」
「それは、可愛い盛りですね。牧さんもお子さんといる時間が欲しいでしょう」
「うちのは、あんたは甘やかせてばっかりって、いつも愚痴ってるよ」
苦笑いをした牧本に、梶原は快活な笑みを見せた。
「いい奥さんですね」
「家のことは心配しなくていいから、あんたはさっさと事件を解決してきなさいよ、なんてことまでいってくる……私には出来すぎたカミさんだ」
惚気にしては色気のない物言いでそう口にすると、牧本はまた煙草を咥えた。
「……奴の初公判、いつになりますかね」
ふいに訊いた梶原の言葉に牧本の返事がないのは、煙草を咥えているせいではないだろう。
「状況証拠は揃ってるじゃないですか。奴が現場にいた物的証拠も目撃証言もある」
「しかし、それは朝日奈 鈴の周辺のみだ。肝心の殺害現場、マンションの内部からは奴の痕跡は見つかっていない。マンションの外にはあれだけの証拠を残しておきながら、だ」
「牧さんは大酉が犯人じゃないと思ってるんですか」
「……分からんよ」
熱っぽく言う梶原に対し、牧本は相変わらずの口ぶりで答える。
「慎重ですね、牧さんは」
「臆病なだけだ。この事件、奴が犯人だと決まれば、奴はおそらく死刑になるだろう。そして、それは当然だと思う。しかし、もし奴が犯人じゃなかったらと考えると怖いのさ。……梶。お前、朝日奈 鈴の死亡を聞いたときの奴の顔を見たか」
「ええ。あの話はちょっとまずかったんじゃ」
「責任は私が取るよ」
朝日奈 鈴は実際には死んではいなかった。
事件後しばらくして、捜査中の現場マンションに、人が入り込んだ形跡まで見つけられた。馬鹿なマスコミ連中の仕業だろうと警察は現場に監視の警官を置いた。しかしそれだけではなく、入院中の朝日奈 鈴の病室に誰かが侵入しようとした形跡まで見つかったのだ。
本当に犯人は捕まったのか。
本当の犯人はまだ鈴を狙っているんじゃないのか。
すごい剣幕で詰め寄る鈴の祖父に対し、警察は異例のマスコミ対策として鈴の祖父、陽一郎の要求を聞き入れた。鈴が死亡したという嘘の報道を流したのだ。
その後、おかしな現象は止まったため、やはりマスコミの仕業だったのだろうという話を、警察内ではしているが。
「何人死んだかは問題じゃない。私達は引き続き、この事件の真相を探るだけだ」
「やっぱり、牧さんはあいつが犯人じゃないと思ってるんですね」
鈴が死んだと聞かされたときの大酉はひどく怯えていた。すべてを失ったような絶望感に満ちた顔。鈴の意識が戻りさえすれば自分は救われるのだと、本当に思っていたのではないかというような。
大酉が犯人じゃなかったら……。
初動捜査で鈴の周辺から次々と見つかった証拠と、目撃証言。あっけないほど簡単に大酉に結びついた。
そして大酉の身柄も簡単に拘束することができた。それは本当に、疑わしくなるほどあっけないものだった。
捜査の手を抜いていたとは思わない。しかし、目の前に簡単に差し出される証拠の数々に、もっと見なければならない大事な物を見落としている気がする。
もしも大酉が犯人じゃなかったら。
事件からすでに一ヶ月が過ぎている。
牧本は短くなった煙草をスタンド灰皿に押し付け消した。いつの間にか胸の奥に、もやもやとした黒い煙が大きく広がっていた。