第三章・1
第三章
―1―
「あの子はどうした」
「最近はそればかりですね」
「あの子はどうした」
大酉が逮捕されてから、いつのまにか一ヶ月が経っていた。大酉の容疑はいっこうに晴れないままだ。鈴が目覚めたという話もない。
虚ろな目で繰り返す大酉に、牧本はまた苦々しく言葉を歪めながら言った。
「私にも息子が一人います」
その言葉に、大酉の瞼がぴくりと動く。
「まだほんの赤ん坊ですが同じ子をもつ親として、自分の子供がもし同じ目にあったとしたら、犯人を憎んでも憎みきれないでしょう。もっとも、彼のご両親はすでに亡くなっていますが」
なるほど。だから鈴のことになると、この刑事は感情を隠し切れないのか。
大酉にはそういう考え方はできない。子供がいるわけでもないし、両親の声を最後に聞いたのも、いつのことだったか覚えていないくらいなのだ。それ以前に、人とまともに接触したのもいつだったか忘れた。いつも自分のことを考えるだけで頭はいっぱいだった。
そして、それは今でも同じだ。
「あの子は、いつ目を覚ますんだ」
鈴が目覚めさえすれば、自分の無実は証明される。
もう一度同じことを問いかけた大酉は、牧本の目に怒りの色が浮かぶのを見た。
「彼は死んだ」
牧本の言葉に、大酉はぼやけていた焦点を牧本に合わせ、目をしばたかせた。
「え……?」
「牧さん!」
いつも大酉の後ろに立っている大柄な刑事が、止めるように牧本の名前を口にする。
「おい、あれを持ってきてくれ」
「でも」
「いいから持って来い」
「……分かりました」
大柄な刑事は牧本に言われ一度取調べ室を出て行くと、新聞を手に戻ってきた。牧本はそれを困惑している大酉の前に、ひどく乱暴に広げた。
びっしりと並んだ文字の中、少し控えめな一つの記事が目に留まり、大酉はそれに鼻先が触れるほど顔を近づけ確認する。
【朝日奈一家の次男、死亡】
なんの面白みもないタイトルだった。
「先月初めに起きた“朝日奈一家惨殺事件”の唯一の生き残りだった朝日奈 鈴君(十五)が、事件から一ヶ月経った二月十日の深夜一時頃息を引き取った。鈴君は事件の際、マンションの六階から転落後意識不明だったが、病院に運ばれてから一度も目を覚ますことはなかった……」
記事を目で追う大酉の頭上で、牧本が記事の内容を読み上げる。
「救急隊員が彼を病院へ搬送するときには、もう昏睡状態だった。一ヶ月よく持ったほうだ」
「そんな……まさか、こんな」
うろたえたように、けして長くはないその記事の文章を何度も目で追う大酉を、牧本は冷ややかに見下ろしていた。
「何を震えている」
牧本の声に大酉は新聞から顔を上げた。言われて初めて、自分の体が小刻みに震えていることに気がついた。絶望的な気持ちで牧本を見る大酉に、牧本は少し顔を近づけると、ひどくゆっくりとした口調で言った。
「お前が、殺したんだろ」
足元が音をたてて崩れていくような気がした。底のない真っ暗な穴に突き落とされるような、そんな気が。
『……たすけて……』
あの時の鈴の声が頭に響き、両手でかきむしるように耳を塞ぐ。
赤い口元。うっすら開いた自分を見つめる黒い瞳。コートの端を握りこむ幼い手。
あの夜の光景が目の前にちらつく。
罰が当たったのだ。
大きな罰が。
あの時、必死に助けを求めたあの子を見殺しにした罰が。