第二章・2
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「花壇の土に残っていた足跡が、あなたの家にあったスニーカーと一致しました。逆にあなたのスニーカーについていた土は、マンションの花壇の物と一致しています」
牧本の取調べは淡々としていたが、同じことを何度も飽きずにねちねちと繰り返す。大酉の身柄の拘束はすでに三日目になっていた。
誰かに面会することも、連絡を取ることも出来なかった。大酉に面会したいという人間は一人も現れはしなかったが。
「だから、俺はあの子の様子を見に行ったって言ったじゃないか」
「隣のマンションの屋上からは、あなたの唾液のついた煙草の吸殻が見つかっています」
「だから……それも、説明しただろ。俺はあそこで、大物政治家のスキャンダルを撮ろうと待ってたんだ」
「マンションに入るところを撮りたいなら、反対側からの方がよく撮れるんじゃないんですか。あっちはベランダ側だ」
そんなことは知っている。大酉自身、そうしたいと思っていた。
「だったらなんだっていうんだ! 俺があの屋上にいたからって、誰かを殺したことにはならないだろ!」
もう三日同じことを叫び続けた声はガラガラに傷んでいた。それでも主張し続けなければならない。自分は殺してなどいないのだから。
「面白いものを見せましょうか」
「面白いもの?」
「事件の翌日の朝刊です。それとこっちは今日発売された週刊誌なんですけどね。もしかしたら、あなたの言っていた大物政治家というのは、この人のことなのかと思って」
事件の翌日の朝刊の三面記事は、もちろん朝日奈一家の記事だ。それは大酉も目にした。しかしそれとは別のページを、牧本は開いて大酉に見せた。そこに大酉があの夜、寒さを我慢して待ち続けた政治家の名前があった。
「こちらはもっと分かりやすいですよ」
人の醜い好奇心を煽る見出しが敷き詰められた、下品な表紙の週刊誌。
ひときわ大きく扱われた見出しに、『スクープ!』という文字を添えられて、その名前はあった。
「そうだ。こいつだよ。俺があの日撮ろうとしてたのは」
雑誌の中には、その政治家が車を降りて、女の腰にいやらしく手を回しながら建物の入り口に入って行く様子を、コマ撮りで追った写真が二ページに渡って掲載されていた。
場所は都心のブランド店が立ち並ぶ高級街のシティホテル。
「あなたが撮りたかったのがこの人だとすると、あなたはあのマンションに何をしに行ったんですか」
大酉に入った情報はガセネタだったわけだ。
とことんついてない。こんなにもついていないことがあるのかと思うと、可笑しくなってきて、大酉はくっくと肩を揺らし笑い始めた。
そんな大酉にも、牧本は相変わらず冷たい視線を向けるだけだった。
「あなたの勾留期限の延長を申請します」
◆◆◆◆◆◆
「この血はなんですか」
別の日、牧本は大酉に袋に入ったタオルを見せた。そんなものに見覚えはないと言おうとしたが、どうやら大酉の家の物らしい。そういえば、事件の翌日にシャワーを浴びたことを思い出した。
無意識に殴られた頭へと手をやる。
「俺の血だ。あの一家のじゃない。言ったはずだ。俺も犯人に殴られたって」
「確かに。調べたところこの血液はあなたのものと一致しました」
「そうだ。そう言ってるじゃないか。見てくれ、まだ傷も残ってると思う。煉瓦で殴られたんだから」
大酉は頭を差し出したが、牧本はそれには見向きもせずに話を続けた。
「犯人にですか」
「ああ」
「とすると、あなたはずいぶんと幸運だ」
「幸運?」
「犯人は一家四人を襲い、三人をその場で殺害した残酷な人間です。なぜ犯人はあなたを殺さなかったんでしょうね」
知るかそんなこと。
「朝日奈家の長男の光さんですが……」
疑問を投げかけておきながら、自分で話題を変えた牧本に、空中に放り投げられたような不安定な気持ちになる。
「彼は酷く抵抗したようです。腕や手の損傷が激しかった。弟の鈴君を何とか逃がそうとしたのかもしれません」
それはずいぶんと弟想いな兄さんだ。
「あなたのその傷、本当は彼につけられたものじゃないんですか」
「何?」
「光さんを殺そうとした時に争って、抵抗した彼に殴られたのでは」
「違う! 俺は煉瓦で殴られたんだ。マンションの外、あの通りで犯人に後ろから殴られたんだ」
「その煉瓦は」
「煉瓦は……壁に投げつけて粉々になったけど」
「あなたが自分で自分を殴ったということも考えられる。自分も被害者だということにするために」
大酉を犯人に結びつけるためのこじつけは、次から次へと出てくるのに、大酉が犯人ではないと主張できる要素は、まるで見つけられなかった。
「今日はこの辺にしましょうか」
「待ってくれ!……そうだ。あの子は? あのベランダから落ちた子はどうなったんだ」
椅子から立ち上がった牧本に、大酉は自分も立ち上がり牧本を引き止める。
「朝日奈 鈴君のことですか」
「ああ、あの子なら分かるはずだ。俺が犯人じゃないって。あの子なら本当の犯人の顔を見てるはずだろ?」
「彼は今でも意識不明の重体だ」
牧本は鈴のことになると口調が歪む。
「連れて行け」
補助官に告げて牧本は取調室を出て行った。
戻された狭くひんやりとした留置所。
事件の凶悪性からか大酉が入れられているのは独居房だ。三畳ほどの狭い空間に便器と洗面所が設置されていて、寝具と机が端に置かれている。けして小柄ではない大酉には、息苦しくなるような空間だった。
冷たい布団の上に大酉は丸くなり、鈴の回復を願った。鈴が一言、犯人は大酉じゃなかったと言ってくれれば、それですべて終わるのだ。
目覚めてくれ。
早く。
目を覚ましてくれ。