第二章・1
第ニ章
―1―
すでに午後九時になるという時間。大酉は警察署の取り調べ室の中にいた。小さな部屋に机と椅子が二脚、小さな格子付きの窓が一つあるだけの殺風景な部屋だった。
一応、任意での同行、取調べということだったが、刑事たちの自分に向けられた、まるで汚いものでも見るような視線が気になる。
「昨夜、起きた事件のことは知っていますか」
大酉の前に座っているのは、牧本と名乗った刑事だ。歳は三十後半といったところか。言葉こそ丁寧だが、その口調は重く冷たかった。
視線はじっと大酉を射抜くように見つめていて、訳の分からない不安が大酉を襲う。自分は別に殺人なんてしていないのだから、何も怯えることはないのに。
「ええ、まあ……」
「昨夜、現場近くから慌てたように走り去る車が目撃されています。そしてこれは、現場から三百メートルほど離れたガソリンスタンドの防犯カメラに映っていた物なんですが」
机の上、大酉の目の前に一枚の写真が置かれた。拡大すればナンバーもはっきり分かるであろう古くて小さな白いバン。間違いなく大酉の車だ。この写真では、慌てているかなどというのは分かりはしないが。
「昨夜、あなたはあのマンションにいましたね」
「ええ。いましたよ」
隠しても仕方がない。
「それで、昨夜あなたはあそこで何をしてたんですか」
「仕事ですよ……。知ってるんでしょう、俺の仕事」
「カメラマン……でしたっけ」
牧本はわざとらしく手元の資料を見ながら言った。
「あんな時間に、あんな場所で何を撮っていたんですか」
「ある大物政治家が女と会ってるって話を聞きましてね。それを撮りに行ったんですよ」
「政治家が? あんな場所で……ですか」
「知りませんよ。俺はただ、そういう情報があったからあそこへ行って、そいつを待ち伏せしてただけなんだ」
つい口調が荒くなる。
「それで、写真は撮れましたか」
「いや、結局そいつは現れなかった」
「なるほど。それは残念でしたね」
一体何なんだこれは。
「おい、いい加減にしろ。俺が犯人だとでも言いたいのか」
「今、あなたの家を家宅捜査しています」
「はあ?」
「礼状も取ってありますが見たいですか」
「なんで俺の家が調べられなきゃならないんだよ!」
思わず椅子から立ち上がった大酉は、別の刑事に後ろから肩を押され再び椅子に座る。牧本よりもずいぶんと大柄な、見るからに体育会系という体格のいい男だ。
「まあ、落ち着いてください。犯人じゃないなら何も出ては来ないでしょう」
見ず知らずの人間が今、自分の部屋の中を好き勝手に荒らしていると思うと胸がざわついた。
もちろん血のついた凶器なんて出てはこない。それでも、大酉の部屋には一歩間違えば犯罪になりかねないような写真のネガがいくつも保管されていた。
どうしてこんなことに。
「少し休憩しますか」
牧本が時計を見て言った。その言葉は、まだこの取調べが終わらないことを示している。
疲れて項垂れた大酉の耳に、ドアをノックする音が聞えた。ドアが薄く開いて、牧本より若い刑事が顔を覗かせる。牧本がドアの方へと行くと、その若い刑事が牧本に顔を寄せてひそひそと何かを話しているのが目の端に映った。
何だ。何を話している。
牧本が若い刑事に何かを告げ、席へと戻ってきた。
「何だ。おい、何話してたんだよ」
牧本は机の上で手を組むと、大酉の顔を覗きこんだ。
「大酉圭介さん、あなたを正式に殺人の容疑で緊急逮捕します」
まったく口調を変えることなく言った牧本に、大酉は目を見開いた。
「待て。ちょっと待ってくれ。何でだ! 俺はあの家族を殺してなんかいない!」
怒りのままに両手で机を叩く大酉にも、牧本は動じることもなく、静かに小さな袋を大酉の目の前に掲げた。中に何か入っている。
「これに見覚えはありますか」
中に入っていたのは十円玉ほどの釦だった。
「これは……」
「そう、あなたのコートの釦です。裾の一つが取れていましたが、形も大きさも他の釦と同じでした」
確かに裾の釦が取れかかっていたのは覚えているが。
「これがどこにあったか分かりますか」
そんなの分かるはずがない。
眉を顰めた大酉にゆっくりと牧本は言った。
「ベランダから落ちた少年、朝日奈 鈴君の手の中ですよ」
大酉は一瞬、呼吸をするのを忘れた。牧本が何を言ったのか分からない。いや、何を言ったのかは分かる。しかし、それが何を意味するのか、すぐには理解できなかった。
「鈴君が病院に運ばれたとき、左手の中にこの釦を握り締めていたそうです」
大酉は体から血の気が引いていくのを感じた。呼吸が上手くできない。唾を飲めばゴクリと喉が鳴った。
あの時だ。
犯人を追おうと立ち上がった大酉を引き止める、あの感触。コートの裾を握っていた小さな手。
「違う……違うんだ! それは、俺がその子の様子を見に行ったときに取れたもんなんだよ!」
「様子を見に?」
「そうだ!」
事件の被害者が手に握り締めていた証拠品。それは単純に考えれば犯人に結びつけられる物だろう。このままでは本当に殺人犯にされてしまう。必死に大酉はあの時の様子を説明した。
「あの時、俺は隣のマンションの屋上でカメラを構えてたんだよ。あの、大物政治家のスキャンダルを撮ってやろうと思ってだ。そのとき、何か壊れるような音がして、俺はカメラをそっちに向けたんだ」
大酉はカメラを構える手振りを交えながら話す。
「すると、あの部屋のベランダから、男の子が出てくるのが見えたんだ。誰かに追われてたんだと思う。そう、あれは逃げようとしてた。続けて誰かが出てきて、男の子は隣のベランダに飛び移ろうとして――落ちたんだ」
“落ちる”という部分で、手を一度上げ机に叩き下ろす大酉を、怪訝な表情で見つめる牧本。
「俺はマンションを駆け下りて、男の子が落ちた場所を探した。男の子はすぐに見つかった。俺は様子を見ようと近寄ったんだよ。その時、男の子にコートを掴まれたんだ。その、えっと、鈴君だっけ? その子が釦を握ってたのはそのせいなんだ」
「その時、鈴君の意識はあったのか」
「ああ。俺に助けてと言った。そうだ、助けてって言ってた」
大酉は何度も頷きながら言う。
「……それで、その後あなたはどうしたんです」
「マンションの奥の通りを犯人が通ったんだよ」
「奥の通りというと、あの細くて暗い?」
「そう。それで俺はそいつを追いかけたんだ。そうしたら突然殴られた。俺も被害者なんだよ。あいつは俺のカメラのフィルムを抜いていった。あのフィルムには、犯人が写っていたかもしれないのに。いや、写っていたはずだ。俺はあのベランダに向かって確かにシャッターを切った」
悔しそうに拳を握り締める大酉に、牧本は眉間に深い皺を刻む。
「すまないが、私にはあなたの言っていることがさっぱり分からない」
「え?」
「つまりあなたは、ベランダから落ちるあの子を見て写真を撮った。落ちたあの子の傍へ行き、あの子は助けを求めてあなたのコートを掴んだ。そしてあなたは奥の通りに現れた、犯人かもしれない奴を追いかけ殴られた。犯人が写っているはずのフィルムは、その時に犯人によって抜き取られた」
「そう。そうだ」
何が分からないと言うのだろう。
「いい加減にしろっ!」
今まで一度も声を荒げなかった牧本の怒声に、大酉は驚いて肩をすくめた。そんな大酉に牧本はぐっと顔を近づけた。大酉は怒りに満ちた牧本の目に映りこむ、自分の情けない顔を見た。
「お前は目の前で血を流し死にかけている子供が、助けを求めているのを振り切って、本当に犯人かどうかも分からない人間をカメラを持って追いかけたというのか」
大酉の後ろにいた刑事も、腕を組みながら大酉を蔑むように見下ろし言った。
「信じられないな。ベランダから落ちた瀕死の子供が目の前に居たら、救急車や警察を呼ぶのが普通だろ」
“普通”なんて知らない。
「た、確かにあの時、俺が取った行動は少しおかしかったかもしれない。でも、あの時は、犯人を追いかける方が大事だと思ったんだ!」
「この状態で、助けてと言っている子供が目の前にいてもか!」
牧本の手により、また机の上に広げられた数枚の写真。そこには赤黒く晴れ上がった痣、無残に骨の折れた足、生々しく開いた傷口が写されていた。とても見ていられる物ではないのに、目を離せなかった。
口の中に湧いた粘ついた唾液が飲み下せず、喉に纏わりつく。
「……動機は。俺にはあの家族を殺す理由が無い」
「職場からも家族からも信頼され人望のある一家の主。家庭を守る明るくおっとりとした妻、仲が良く将来を期待されている二人の子供。ファインダー越しに覗き込んだ、幸せを絵に描いたような家族に嫉妬したんじゃないのか」
後ろで言った大柄な刑事を、大酉は振り返る。
「な……いくらなんでも、そんな理由で一家皆殺しなんてしたりしない!俺は確かにこんなだが、そのことで自分に苛つく事はあっても、誰かを妬んだりなんかしない!」
「殺人犯には何人か会っているが、人を殺す理由なんてのは、どんな理由もその程度かと思うようなものばかりだよ」
牧本の口調が静けさを取り戻す。
「あなたには、まだまだ話を聴く事になりそうだ」