第十章・3
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「雨……止んだみたいだね」
大酉の言葉に、常磐は窓の方へ目をやった。
アスファルトを打っていた雨音が、いつの間にか静かになっている。
話を終えた大酉は、すっかり冷えた茶を飲み干した。
常磐は自分に出された茶に、結局一口も口をつけていないままだったのを思い出し、自分も湯呑みを取り上げる。
「鈴さんと同じように、私は別に鈴さんを本当に殺したわけではないのだからと、言う人もいるかもしれない。それでも、私はあの日の私を許すことはできなかった。そんな私に……取り返しのつかないことをした私に鈴さんは、もう一度、鈴さんを助けるチャンスをくれた」
それは鈴にしかできない方法で。
「この罪は私が一生背負っていくものだと思っていた。誰がどんな言葉を掛けてくれても、酷く重く私の背に圧し掛かっていたそれを、鈴さんが軽くしてくれたんだよ」
「……なくなってはいないんですね」
法的にも実際にも、大酉は『無罪』だ。それでも大酉の罪は、軽くはなっても消えてはいないという。
常磐の言葉に大酉は小さく笑った。
「もう一度、鈴さんをこの手で助けるチャンスをもらったことで、やはりあの日、私は鈴さんを助けるべきだったと思うんだよ。そうすれば今頃、鈴さんは……」
何度も繰り返す自問自答。
口調を苦くしながら、大酉が視線を落としたときだ。タンタンという小走りに二階から降りてくる足音がした。
「大酉」
鈴がひょいと店に顔を出した。
その声はなんだか弾んでいて、壁から覗かせた顔は笑顔だったが、店内にいた常磐と目が合うとあからさまに顔を顰めた。
そんな顔をしなくても……。
思いながら常磐は小さく頭を下げる。
「どうも……こんにちは。お邪魔してます」
「何ですか、今日は」
「べ、別に今日は、朝日奈さんに会いに来たわけじゃありませんから」
ちょっと強気に言ってみるが鈴は「あっそ」と素っ気なく視線を大酉に向けた。
「灯ちゃんはもう起きたんですか」
大酉が訊くと鈴は小さく微笑む。
「うん、さっき」
「じゃあ今、お茶を……」
「そんなことより、大酉、ちょっと上に来て」
先程の弾んだ声色に戻り鈴が言った。
「どうしたんですか」
「いいからおいで、早く。部屋で待ってる」
なんだかはしゃぎながら、鈴はまた二階へと上がって行ってしまった。
常磐が来ていることなど、もはや眼中にないらしいということに、小さく傷つきつつも仕方なく常磐は立ち上がった。
「それじゃあ……俺、失礼しますね」
「うん。悪いけど、そうしてもらえるかな。あ、ごめん。出るとき、営業中の札裏返して行ってくれる?」
「はい」
「宜しくね」
鈴を待たせてはいけないと、テーブルの上の湯呑みもそのままに大酉は席を立った。
「大酉さん」
二階へと向かおうとした大酉は、呼ばれて常磐を振り返った。
「昔のあなたがどんな人間だったとしても、今の大酉さんは朝日奈さんにとって大事な人だと思います」
常磐はドアの前でそう言うと一礼して、蜃気楼を出て行った。営業中の札を裏返すこともちゃんと忘れずに。
あの刑事は人が良すぎると、大酉は思い苦笑する。
二階へと上がると、鈴が大酉の部屋の窓辺で不満そうに腕を組んでいた。
「遅い」
「すみません。それで……どうしたんですか」
「あれ」
鈴は窓の外を指差した。
雨上がりの空のまぶしさに目を細めながら、大酉は鈴の指差す方を見る。ビルの狭間の青空にくっきり見事な虹が架かっていた。
「ああ……綺麗ですね」
「だろ。ほら、何ぼうっとしてんだよ」
「え?」
「え、じゃないよ。シャッターチャンスだろ」
写真を撮れということらしい。
「ほら、早く早く。消えちゃうって」
「は、はい」
急かされ慌ててカメラを用意する。
鈴は大酉に我侭だ。しかしそれが優しい我侭だという事を大酉は知っている。
「鈴さん、虹を撮るのは難しいんですよ」
「だから大酉に言ってるんじゃないか」
なにか文句でもある? とでも言いたげな目で大酉を見る鈴に、大酉は笑うとカメラを構えた。
あの日、捨てられずたった一台手元に残し、バッグに詰めたあのカメラ。
もう二度と写真を撮ることはないと思っていた。鈴の言葉がなければ、こうして再びカメラを手にすることはなかっただろう。そんな資格はない。
それでもやはり、手にしたカメラの重みは心地良く、シャッターが切られるその音に胸が高鳴るのを感じる。
そんな大酉の気持ちを知ってか知らずか、時々こうして鈴は写真を撮れと言う。
庭に花が咲いたとか、縁側で猫が寝てるとか。被写体を見つけては撮れと言いつけて、出来上がってきた写真を見るたびに満足そうな顔をするのだ。
大酉はファインダーから虹を見た。
窓から身を乗り出すようにするとアングルを変え、数枚シャッターを切る。
一度ファインダーから目を放し、肉眼で見上げた空にはもう虹はなかった。
「消えちゃいましたね」
そこに居るはずの鈴に呼びかけると返事が無い。
振り向くと大酉のベッドの上で、鈴はあちら側へと行ってしまった後だった。
悪夢を見ているはずの鈴だが、その寝顔は極めて安らかだ。
大酉はカメラを一度ベッドの脇に置くと、ずり落ちそうな鈴の体をちゃんとベッドの上に乗せてやり、その隣に腰を掛けた。
虹を納めたカメラをもう一度手にする。
うまく撮れただろうか。
うまく撮りたい。
そう思える。
鈴の我侭はいつだって優しい。
大酉は穏やかな鈴の寝顔にレンズを向けると、そっと一枚シャッターを切った。
【夢わたり《其の伍》・完】
お読みいただき、ありがとうございました。
【夢わたり・其の伍】はここで終わりです。
お話は【夢わたり・其の陸】に続きます。
完結感謝イラスト【どうか よい夢を】
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