第十章・1
第十章
―1―
ここはどこだろう。
見回せばそこはマンションの屋上。手にはカメラを持っている。
強い風が吹き付けて、大酉はコートの前を掻き合わせた。
ああ、そうだ。
自分はここに写真を撮りに来たんだった。ある大物政治家のスキャンダルを撮りに。
車の近づいてくる音に、凍える指先でカメラを構え直し音の方へと向ける。
しかし車は停まることなく、走り去ってしまった。忌々しく思う反面、やはりという諦めに似た感情に大きく息を吐く。
そう。自分は知っているのだ。目当ての人物は今夜ここには来ない事を。そしてこれから起こる出来事を。
ガシャン
ガラスの割れる音がした。
心臓が一瞬止まるような感覚に息を詰め、震える手でファインダーをそのベランダへ向ける。
向かいのマンション六階の角部屋。黄色いカーテンが揺らめき、中から少年が一人転がり出て来る。
頼む。やめてくれ。
大酉の願いとは裏腹に、少年はベランダの手すりに足を掛けた。
部屋からもう一人の影が現れる。
やめろ。
これから起きる出来事を、最後まで見ずに大酉はその場にカメラを置いて駆け出した。屋上から階段を一段飛ばしで駆け下り、マンションを飛び出した大酉の耳に、ドスリという重い音が聞こえた。
絶望的な気持ちで息を切らしながら、大酉はその場所へと向かう。
そこに少年は倒れていた。
花のない駐車場脇の花壇の中、下半身はコンクリートの駐車場の方へ投げ出して。
どうしたって間に合わないのだ。
マンションの屋上から、一気に駆け下りたせいだけではない震えが足を襲う。
少年に近づくと、まだその顔は綺麗だった。大酉は少年の傍らに膝をついた。
「……君、しっかりしろ」
声を掛けるが触れる事はできない。どこをどう触れればいいのか分からない。もし首の骨を折っていたりすれば、ヘタに動かすほうが危険かもしれない。
様々な思いが頭をよぎるものの、ただ怖いだけというのが本音だった。
すると、少年が大酉の呼びかけに薄っすらと目を開いた。
大酉はハッと息を呑む。
「大丈夫か。聞こえるか?!」
少年は頼りない視線を大酉に向ける。その鼻からどろりとした血が流れ出た。
このままではこの子は死んでしまう。
そのとき、かすかな足音が大酉の耳に聞えてきた。少し小走りに。それでも焦ることもなく、目の前のマンションの階段を下りてくる足音。
そしてそいつは現れた。
マンション奥の細い通り。大酉をからかうかのように、そいつは足を止めこちらを伺っている。
立ち上がろうとした大酉は、ぐいと体を引かれる感覚に振り返った。
「……たすけて……」
少年が血の溢れる口で呟いた。その手は大酉のコートの裾を握っている。
大酉はコートを脱ぐと少年に掛け言った。
「すぐに戻る! 頑張るんだ。すぐに戻るから。いいね」
コートを着ていても寒いはずの真冬の夜でも、そんなことは一切感じない。目を戻すと奥の通りにあいつの姿はもうなかった。
大酉は走ってマンションへと入ると、一階の一番近い部屋の呼び鈴を鳴らす。
「すみません! いらっしゃいますか? すみません!」
拳でドアを叩くが反応は返って来ない。隣のドアに移り同じように呼び鈴を鳴らした。
「すみません! 子供がベランダから落ちたんです。誰か、誰か救急車を呼んで下さい!」
ドンドンとドアを叩くが、マンションは不気味なほど静まり返っている。
くそ。
大酉はマンションを離れ、公衆電話を探した。
ない。
ない。
どうしてないんだ。
走りながら辺りを見回していると、マンションの敷地を出て道路の向こう側に、やっとボックスの公衆電話を見つけた。大酉はそこに駆け込み受話器を取る。緊急用のボタンを押すが、耳に当てた受話器からは呼び出し音すら聞こえない。
どうなってるんだ。
フックをガチャガチャと手で下ろしてみるが、やはり何も聞こえない。
そこでようやく大酉は自分の持っている受話器の線が、ぶらりと垂れ下がっているのに気がついた。たぐり寄せると、受話器の配線は刃物のようなものでスッパリと切られていた。大酉は受話器を叩き付けるようにフックに掛けた。
どうしてこんな……。
そこへ、自転車に乗った男がボックスの前を通り過ぎた。大酉は慌ててボックスを出る。
「すみません、待って下さい! 助けて下さい!」
喉が枯れるほど叫んでも、自転車の男は止まってはくれない。必死に走って追いかけても、自転車との距離は埋まらず、大酉は足をもつれさせアスファルトの地面に両膝と手をついて転んだ。
自転車は見る間に遠ざかって行く。
「待ってくれ! 子供が、子供が死にそうなんだ! 待ってくれ……」
大酉の必死の声も空しく、自転車は闇夜の中に消えて見えなくなってしまった。
うな垂れ、自分の無力さに冷たい地面についた手を握りしめる。
あの子は無事だろうか。
痛む膝を引きずりながら、大酉は少年の元へと急いで戻った。
大酉の上着を握りしめながら、少年は先ほどと変わらず花壇に横たわっていた。
「君、大丈夫か」
恐る恐る声を掛けると、少年は突然咳き込んだ。血の泡が口から溢れ出る。
「しっかり、頑張れ、頑張るんだ」
ああ、どうすれば。
病院はそれほど遠くない。車で走らせれば五分とかからないだろう。
どうする。
「待っててくれ。今、病院に連れて行ってあげるから」
大酉は路地裏に止めてある自分の白いバンへと走った。エンジンを掛けると、少年のすぐ傍の駐車場へと止め、後部座席のドアを開ける。
「いいかい、君を病院へ運ぶからね。大丈夫。すぐそこだ。頑張るんだよ」
大酉は掛けた上着で少年を包むようにすると、そっと少年を抱き上げた。
折れた足がぶらりと垂れ下がり、少年が苦痛に悲鳴を上げる。その声に少年を落としてしまいそうになるが、大酉は歯を食いしばり耐え、少年の体を抱えなおすとバンの後部座席に横たえた。
運転席に乗り込みドアを閉める。その振動にすら、少年はうめき声をあげる。
大酉は焦りながらも、慎重にアクセルを踏んだ。
カメラのバッグをマンションの屋上へと置いて来てしまっていたが、そんなことなどすっかり忘れていた。
たった五分の距離がやたらと長く感じる。
ことごとくブレーキを踏ませる赤信号と、やたらと多い他の車両に苛立った。
それでも闇夜の中、やっと見えた大きな病院のシルエットに小さな安堵を覚える。
大酉は病院の正面玄関真ん前にバンを止めると、運転席を転がり出た。
しかし、自動のはずのドアは、大酉が正面に立っても開かれず、真っ暗なロビーがガラス越しに見えるだけだ。
「すみません、開けてください! 怪我人がいるんだ。開けてくれ!」
ロビーを見回りの警備員らしき人物が懐中電灯を手に通りかかり、大酉はガラスを叩きながら、存在を知らせようと大きく腕を振った。それなのに警備員は大酉の方を見向きもせず、そのままロビーの奥へと消えて行った。
そんな馬鹿な。なぜ気づかない。
愕然とする大酉だったが、こうしている間にも、車の中の少年は死んでしまうかもしれない。
そうか。
大酉は再び運転席に乗り込むと、車を病院の裏手にある緊急搬送用の入り口へと向かわせた。
誰かを運んで来たばかりなのか、救急車が止まっているその隣へとバンを止める。
運転席を降りようとして一度、大酉は後部座席の少年を振り返った。少年を包むコートは血に染みて色が変わっている。少年は身動き一つしない。息をしているのかすら分からない。
「誰か! 誰か来てくれ!」
叫びながら緊急搬送口から病院内へと入る。ツンと鼻を衝く薬品の匂いのする廊下に、大酉の声だけが響く。
「頼む。誰か! 誰かいないのか! 誰か、あの子を助けてくれ!」
やはりダメなのか。自分はあの子を救うことはできないのか。
あの子が死んで行くのを、ただ見ていることしかできないのか。
ひんやりと冷たい床に膝をつき、自分の無力さに拳をそこに叩き付けた。
そのときだ。
「もしもし」
女の声がして、大酉は顔を上げた。
「どうかされましたか」
いつの間にか、女性看護師が不思議そうな顔で、大酉の前に片膝をついてしゃがんでいた。
一瞬言葉を忘れた大酉だったが、目の前の肩をひしと掴むと、もう掠れてしまっている声で訴えた。
「そ、外の車の中に子供がいるんだ。ベランダから落ちて……。他にも、他にも怪我をしていて……」
女性看護師は自分の肩を揺する大酉の手をそっと外すと、車の方へと走って行った。
すると今までどこに居たのか、看護師と医者が次々と現れ、ストレッチャーを転がしながら、どたどたと大酉の前を駆け抜けて行く。そして、すぐにストレッチャーに少年を乗せて戻って来た。
大酉は立ち上がり、医者達についてストレッチャーの脇を走った。
少年の顔はすでに死んでしまっているかのように青白い。
「頑張れ。病院だぞ。もう大丈夫だ」
走りながら少年に声を掛ける。少年の返事はない。
「すみませんが、ご家族の方はこちらでお待ち下さい」
手術室の前まで来た所で、女看護師がそう言って、大酉はドアの前に一人取り残された。
「お願いします。どうか、どうかその子を助けて下さい!」
手術中の赤いランプがドアの上に点灯する。大酉は力が抜けたように壁際の黒い長椅子に座り込んだ。
助かるだろうか。
これで正しかったのだろうか。
分からない。
もしかしたら、乱暴に運んだせいで傷をひどくしたかもしれない。
大酉は両手を握り合わせ、そこに額をつけて祈った。
医者でも神でも仏でも、あの子を助けてくれるならなんでもいい。
どのくらいそうしていただろうか。ドアの開く音に大酉は顔を上げた。医者が青いマスクを外しながら出て来る。
「先生、あの子はっ」
医者の行く手を阻むように、前に転がり出た大酉にも医者の顔は無表情で、大酉の不安をかき立てる。
「手は尽くしました」
抑揚の無い無機質な声で医者が言うと、奥からストレッチャーに乗った少年が、様々な機械に繋がれた状態で運ばれて来る。人工呼吸器からシュウシュウと少年へと空気が送られる音。
生きている。
いや、しかし。
一週間後は。一ヶ月後はどうだろうか。
ちゃんと意識は戻るのだろうか。
なんだか寂しいくらいに白い病室の、冷たそうな白いベッドの上に横たえられた少年を見下ろす。
「ご家族の方には仮眠室をお貸ししてますが」
女性看護師が少年にシーツをかけながら言った。
「違う……俺は違うんです。この子の家族は……この子の家族は――」
もういないんです。
言えずに両手で顔を覆い、ベッド脇に膝をついた大酉をそのままに、女性看護師は病室を出て行った。
先程までのバタバタが嘘のような、怖いくらいの静寂があたりを包む。
チリン
何処からか涼やかな音が聞えた気がした。
頭の上に小さな重みを感じ、大酉は顔を覆っていた手を外した。
大酉の頭の上に置かれたのは小さな手だった。思わずその手を握りしめ立ち上がる。
少年が重そうな瞼を上げて、大酉を見ていた。
「あ……」
戸惑いどうしたら良いかと、辺りにうろうろと視線を廻らせた大酉は、目に入ったナースコールを慌てて押した。
『はい、どうしました』
「あ、あの意識が、さっき運ばれた男の子が意識を取り戻したんです」
『分かりました。すぐに行きます』
ロボットのような事務的な返事。
居ても立っても居られず、医者が来るのを確認しに廊下へと出ようとした大酉だったが、その足がふいに止まる。
自分を引き止める感触。コートを着ていない大酉の、セーターの裾を引く小さな力。
振り返ると少年の手が大酉のセーターを掴んでいる。
そして少年は、口元に当てられてた酸素マスクの下、弱弱しく微笑んでいた。
大酉と目が合った少年は声の出ない口で、でもはっきりと言った。
あ り が と う