第一章・2
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大酉はマンションを飛び出すと、少年が落ちたはずの場所へと向かった。
「たしか、この辺り……」
大酉は街灯の明かりも頼りないそこを見回し、駐車場脇の花壇にそれを見つけた。ゴクリと唾を飲み、躊躇いながら近づく。
まだ中学生くらいだろうか……。
まるでスポットライトを浴びるように、街灯の明かりの下、少年は花もない花壇に上半身を仰向けに倒れていた。コンクリートの駐車場の方へ投げ出された下半身の、右足が膝からおかしな方向へと曲がっている。
少年の傍へと近づき、片膝をついて様子を確認しようと手を伸ばしたところ、少年の鼻からどろりとした血液が流れ出たのを見て、顔を歪め思わず手を引く。
よく見れば、少年の体の下は土が湿って色が変わっているのが分かった。
上を見上げ、少年が落ちた六階のベランダを見る。
――高い。
少年に目を戻した大酉は、妙なことに気がついた。
少年の着ているトレーナーが裂けている。元は白かったと思われる赤に染まったトレーナーは、木々を抜けたときにできたのとは明らかに違う、刃物によると思われる切れ目が数箇所あった。
そういえば、さっきベランダにいた人影はいったい誰なのか。
これは……。
大酉は心臓の鼓動がまた、速くなるのを感じていた。
恐怖からではない。緊張からでも、焦りからでもない。……それは好奇だった。
これは事故ではなく事件だ。
ぞくぞくするような感覚。今まで、どんな人間の秘密を覗き見て、暴いてきたときにも感じなかったような興奮が、そこにはあった。
そのとき、かすかな足音が大酉の耳に聞えてきた。少し小走りに。それでも焦ることもなく、目の前のマンションの階段を下りてくる足音。
大酉は振り向いて足音のする方へと目をやる。しばらくして、マンション奥の細い通りを、一人の人影が通りかかった。五十メートル以上離れた暗いそこで、人影がこちらを一瞬チラリと見たのが分かる。
大酉の目にベランダにいた人影と、その人影とが重なる。
あれは犯人だ。
大酉の胸の高鳴りが一層速くなる。
そのまま足を速めるでもなく歩いていく人影に、慌てて大酉はカメラバッグを肩に掛けなおし立ち上がった――が、何かにコートの端を引っぱられ、再び大酉はその場に片膝をついた。
なんだ?
見ると大酉のコートの裾を小さな手が握っていた。
驚きに目を丸くして倒れている少年の顔を見ると、少年がうっすらと目を開き大酉を見ていた。
「……たすけて……」
血の泡が溢れる口で、しかしはっきりと少年が言った。
生きている。
大酉は通りへと目を戻した。人影が視界から消える。
大酉はコートの裾を引いた。しかし、少年の細い手は思いのほか、しっかりと大酉のコートを掴んでいて放れない。
くそ。
大酉は立ち上がりながら、コートを力任せに引っ張った。すると少年の手は簡単に剥がれ落ち、一瞬、大酉は体勢を崩したが、すぐに人影を追って走り出した。
これはチャンスなんだ。
逃がしてたまるか。
通りへと出た大酉は、あの人影を探した。
どこに行ったのか。人影の向かった方へ、辺りを見回しながら駆け出した大酉は、次の瞬間、頭に衝撃を受け意識を失った。
◆◆◆◆◆◆
大酉は重い瞼を持ち上げた。
頬に冷たく硬い感触。目の前にはアスファルトの地面。いったい何が起きたのか……。
地面に伏していた体を起こそうとすると、頭に鈍痛が響いて再び地面に突っ伏す。
いったい何なんだ。
痛む頭に手をやると、指先に濡れた感触。見ればそこには血がついていた。大酉は混乱していた。
これはいったい、どういうことだ。
何とか体を起こすと、カメラバッグが転がり中身をぶちまけているのが見えた。焦りながら大酉は大事なカメラを拾い上げる。すると、そこに欠けた煉瓦が転がっていた。
大酉は理解した。大酉が追いかけてくるのに気づいたあの人影は、物陰に隠れて大酉をやりすごし、背後からこの煉瓦で殴ったのだろう。
「くそぅ!」
大酉は煉瓦を掴むと、近くの壁に投げつけた。煉瓦は砕けて地面に散らばる。
よろけながら立ち上がると、前方から帰宅途中のサラリーマンと見られる中年男が、疲れたような足取りでやって来た。大酉を怪訝な顔で見ながら、距離を取るようにして通り過ぎる。
大酉はカメラバッグを肩に掛けた。その重みに頭がズキリと痛む。
そのときだ。
「キャーッ!」
鋭い女の叫び声がした。あの駐車場の方からだ。どうやら誰かがあの少年を見つけたらしい。
通りを見ると、先ほどすれ違ったサラリーマンが遠くで足を止め、こちらを振り返っていた。
……なんだよ。
大酉はそちらに背を向け歩き出した。何かに追い立てられるように、自然と足が速くなる。
路地裏に停めておいた、古くて小さな白いバンに乗り込むと、大酉は苛つきながらアクセルを踏み、自分のアパートへと車を走らせた。