第九章・5
―5―
『ねぇ、どうして』
今日も繰り返すあの日の夜。
分からない。
自分でも、どうしてあの日あんなことができたのか分からないのだ。
傷つき助けを求めている子供を前に、自分の馬鹿みたいな欲を優先させるなんて。
『どうして助けてくれなかったの』
どうかしてたとしか言いようがない。
許しを請うことなど許されないことは分かっているが、それでもできることならば許して欲しい。
もし、あの日に戻れるのなら、けして見殺しにしたりなどしない。しかし、そんなことができないことも分かっている。
息苦しさに大酉は勢い良く体を起こした。
目を開けると暗い部屋の中、まず目に入ったのは鈴の顔だった。ベッドの端に座っていた鈴は突然起きた大酉に、その肩に置いていた手を驚いたように引く。
「……どうしたんですか」
乱れたままの呼吸を整えながら大酉は鈴に訊ねる。
「どうって……また、うなされてるみたいだったから」
「起こしてくれたんですか。……有り難うございます」
「また嫌な夢でも見たの?」
「まあ……そんなところです」
曖昧に答えると、それ以上続かない会話に鈴はベッドから立ち上がる。
「じゃあ、おやすみ」
大酉は自分の肩に手をやった。わずかに鈴の手の感触が残るそこ。
鈴は人に触れることで、その人の見ている夢に渡ることができる。霧藤はそう言っていた。
そんなことが本当にできるものなのだろうか。
「鈴さん」
呼ぶと鈴は出て行こうとしたドアの前で止まり、振り返る。
「何」
「鈴さんが……人の夢に渡れると言うのは、本当ですか」
「愁成から聞いたんだ」
「……はい」
「できるわけないだろ。そんなこと」
あっさりと否定され、大酉は拍子抜けする。
「そ、そうですか。そうですよね。すみません、変なこと訊いて」
大酉は謝り、この話を終わらせたつもりだったが、鈴はドアを出て行かず再び体を大酉の方へと向けた。
「もし、俺が本当に夢の中に入れたら?」
「え」
「入れるよって言ったら、何だって言うんだよ」
いつになく語尾を荒げて言うと、鈴はズカズカと大酉の傍へと戻ってきた。
「回りくどい訊き方しないで、はっきり言ったらいいだろ! 私の夢に入らなかったか。私に悪夢を見せてるのはお前なんじゃないかって」
「わ、私は別に――」
「いい加減にしろよ!」
激しい口調で大酉を黙らせると、鈴は大酉をベッドに押し付けるようにして、両手でその襟首を掴んだ。
「恨んでないって言っただろ! 俺はあんたなんか恨んでない。どうだっていいんだよ、あんたのことなんかっ。罪滅ぼしのつもりであんたは満足かもしれないけど、辛気臭くてうんざりだ! そうやって、わざわざ自分で自分を不幸にして。むしろあんたが俺を恨んでるんだろ。俺のせいで……あの日、俺が落ちたのを見たせいで、人生が狂ったって思ってんだろっ!! 俺は……俺は――」
震え始めた声と共に鈴の体が小さく震えだす。言葉が途切れた瞬間、どさりと鈴は乗りかかっていた大酉の上に崩れた。
あまりの剣幕に大酉は息を詰め、鈴が静かになってもしばらく動けずにいた。
「……鈴……さん?」
恐々と声を掛けるが返事はない。そっと体を起こすと、大酉の上に乗りかかっていた鈴の体は、ずるりと脇に滑り落ちる。襟首を掴んでいた手に触れると、もはやまるで力が入っていない。
霧藤の言っていた脱力発作というやつだろうか。
これほどまでに感情をむき出しにした鈴を見たのは初めてだ。
大酉はベッドから出ると、自分の代わりに鈴をそこに横たえた。
◆◆◆◆◆◆
それほど長く掛からず鈴は意識を取り戻した。
横にされた大酉のベッドの上、だるそうに寝転んだまま目だけで椅子に座っている大酉を見る。
「平気ですか」
「酷いこと言った。でも謝らないよ」
まだどこか不機嫌さを残しながら鈴は言う。
「分かっています。よく……分かりました。鈴さんが私を恨んでいないということは。ただ、私も鈴さんを恨んでなんていません。私は……元々、覗きみたいな真似をして撮った写真で食べていただけの、つまらない人間だ。確かに私の人生はあの日から一変した。しかし今の自分はむしろ恵まれすぎているくらいなんです」
恵まれている。そのことに文句を言うなんて、それこそおこがましいのかもしれない。
それでも、時々感じる小さな幸せが、あの日の過ちの上に成り立っているのかと思うと、やりきれない気持ちにさせられるのだ。
もちろん、それは鈴が悪いわけではない。
「これは……私の問題なんです」
そんな大酉に鈴は体を起こし姿勢を正すと、大酉と真っ直ぐに向き合った。
「うん、分かってるよ」
「鈴さん……」
「大酉はマゾヒストなんだよな」
「……」
「……」
今、何と?
「……え、いえ、違います……」
「なんだ。違うのか」
「違います! いったいどこからそんな発想がっ」
思いがけない言葉に全力で否定する。
「だって俺がせっかく恨んでないって言ってるのに、いつまでも自分を卑しめるようなことばかり言うから、てっきりそういう趣味なのかと」
「そんな趣味はありません! どこでそんな言葉を覚えてきたんです」
「今どき子供でもそれぐらい知ってるよ」
鈴は“今どき”の子供ではないだろうに。
「それに色々言いつけろって。だから俺もできるだけ努力しようとはしたんだけど……」
「いいです。いりません、そんな努力は! やめてください。私はあの日、鈴さんを見殺しにした。だから、その償いが少しでもできればと――」
身を乗り出すようにして思わず声を大きくした大酉は、鈴の様子に気づき言葉を切った。
大酉から逸らした顔、少し赤い耳。小刻みに震える肩。
笑うのを堪えている。
……それも必死に。
「鈴さん……」
「ごめん。別にからかったわけじゃないんだけど。そんなにムキになると思わなかったから。また発作でたらどうするんだよ」
それは自業自得だと思う。
呆れるのと同時に体の力が一気に抜けた。
鈴はわざとあんなことを言ったのだろう。それに対して大人気なく大きな声をだすなんて、みっともない。
しかし、鈴はそんな大酉を微笑みながら見ている。
胸の中に凝り固まっていたものが解されていくような気がした。
「苦しく……なるんです。鈴さんのことを知ってから更に」
みっともなさのついでに、ぽろぽろとこぼす胸の内。
「どうしてあの日、自分は鈴さんを助けなかったのかと……もし、あの日に戻れればと考えてしまうんです。そんなことができないと分かっていても」
「大酉が見てるのは、あの日の夢なんだね」
鈴は少し考えるように口をつぐむと、俯きぎみの大酉を覗き込んだ。
「大酉。大酉に俺の悪夢を教えるよ」
「え。でも、それは前に教えたくないと……」
「うん。教えたくない。知られたくない。でも、俺は大酉が思ってるほどいい人じゃない」
夢は人の潜在意識の現れ。
「だから知っておいて。俺が本当はどんな人間なのか」
◆◆◆◆◆◆
その日、少し早めに仕事を終え蜃気楼へと戻った霧藤は、店のドアに掛けられた札に、不可解な面持ちでそれを眺めた。
『準備中』の札は問題ない。いつも『営業中』になっている札の裏側に書かれた文字だ。いつもより少し早いが、店仕舞いをしたのだろう。問題はその下だ。
『就寝中』
……なんだこれは。
めくってみれば裏には『起床中』とある。
さらに訝しげになった顔で霧藤が札を見ていると、ドアの内側に大酉が姿を見せた。
「あれ霧藤さん。今日は早いんですね」
ドアを開いて大酉が言う。
「ええ。予約が一つキャンセルになりまして。ところで、これは何ですか」
「ああ、これは鈴さんのアイデアでして――」
霧藤の疑問に大酉が答えようとしたときだ。
「大酉ー」
鈴の呼ぶ声が店の奥からしてきた。
「はい! すみません。ちょっと失礼します」
「……いえ」
結局、札の謎が分からないまま、大酉の後から霧藤は蜃気楼の中へと入る。店の中に特に変化はない。
「鈴さん、これでいいですか?」
「ちょっと右が上がりすぎてる」
「これでどうです?」
「うん。いいと思う」
鈴と大酉は座敷部屋に居た。
「何をしてるんだ」
霧藤は座敷部屋の天井を見上げながら、大酉に指図している鈴に声を掛けた。天井からは時代劇にでも出てくるような御簾が吊るされ、部屋の中央のテーブルの上まで下ろされていた。
「愁成には関係ないだろ」
言いながら鈴は霧藤の隣をすり抜けるように、部屋を出て行く。
「何を始める気なんですか」
「鈴さんなりに色々とやれることを考えているんです」
笑いながら言う大酉の言葉は答えになっておらず、霧藤が眉間に少し皺を寄せる。するとまた鈴の声。
「大酉」
「はい」
「言ってたやつは?」
「ああ、はい。……どうぞ」
着物の袂から何かを取り出し、大酉は鈴の手にそれを握らせる。霧藤は鈴の手を覗き込んだ。
「なんだそれは」
「鈴だよ、鈴。そんなことも知らないのか」
「それぐらい知っている」
「じゃあ、いちいち聞くな。面倒臭い」
まともに答えようとせず、鈴を手に鈴はまたどこかへ行ってしまう。
「鈴の音には魔除けの力があるらしいです」
鈴が居なくなると、大酉は改めて御簾の傾きを確認する。
「へえ。魔除け。でも今の鈴からは音がしなかったみたいですが」
「ええ、そうなんです」
ときどき夢と現実が分からなくなる。
大酉が思いついたのは、現実には音を出さぬ鈴のお守り。
大酉は鈴の悪夢を知った。
鈴自身、止めようにも、どうすることもできないのだというその無意識の意識。
大酉にはそれを消すことはできない。
それでも、少しでも、鈴の苦しみを和らげることができればと大酉は思う。
「まあ、何かをしようという意欲を出すのはいいことですけどね……」
霧藤は自分の疑問がまるで解決されないことに少し不満そうだったが、そう自分を納得させるように言うと、座敷の上がり口に腰を下ろす。
そこにまた、大酉を呼ぶ鈴の声が響いた。
「しかしまた、ずいぶんと我侭になったものだ」