第九章・4
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次の朝、大酉は渋い目を擦りながら冷たい水で顔を洗った。
また、あの夢を見たのだ。
やはり霧藤に相談しようか。
たかが夢。
しかしこのままだと本当にノイローゼになってしまいそうな気がする。
上手く働かない頭で、それでも朝食の準備を終えると、まだ鈴が起きて来ていないことに気づく。霧藤と顔を合わせるのを嫌うため、この時間にはいつも席に着いているのだが。
部屋のドアをノックしてから開くと、かつては輝子のものだったベッドにまだ鈴は横になっていた。普通に眠っているのか『眠り病』のせいで眠っているのかは、大酉には分からない。
「鈴さん、朝です」
揺すろうと肩に手を置いたときだ。突然、胸に衝撃を受けて床に倒れこんだ。弾みで眼鏡が落ちて床を滑る。続けて腹の上に圧し掛かかってきた重みに大酉は息を詰まらせる。
「う……」
驚きに見開いた目に飛び込んできたのは、自分に馬乗りになっている鈴の姿だった。どこか焦点の合わない目で大酉を睨みつけ、その手を大酉の首に掛けてくる。喉元に食い込む細い指を必死で剥がそうとするが、その細い腕のどこにそんな力があるのか、押さえつけるようにしたその手は大酉の首から離れない。
苦しい。
明らかに息の根を止めようとしているその手。
鈴は自分を殺そうとしているのだろうか。
そう思ったとき、大酉は抵抗するのをやめた。
そのとき、ふっと首を絞めていた指が緩んだ。
ぼんやりと霞んだ視界に入ったのは鈴の顔。驚いたように黒い目を丸くして、キョトンと大酉を見下ろしている。
「わ……」
大酉の首を離すと、弾かれたように大酉の腹の上から降りて尻餅をついた。そのまま大酉から離れるように壁際へと後ずさる。
締め付けられていた喉が解放され、大酉は激しく咳き込んだ。
「大酉?」
酷く動揺したように呼ぶ鈴の声に、すぐに答えることはできない。
「ごめん、その……俺……寝ぼけてて」
「大丈夫です」
「でも」
「気にしないでください。そもそも私は、鈴さんにどう思われてても仕方のない人間ですから」
「違う。違うんだ、本当に俺――」
「大丈夫ですから」
大酉はよろけながら立ち上がると、落ちていた眼鏡を拾い上げ、何か言いたそうな鈴から逃げるように部屋を出た。
◆◆◆◆◆◆
「また回数と時間が増えたみたいですね」
眠りの記録を取ったノートを見ながら霧藤は言った。あの後、またすぐに眠ってしまった鈴の様子を見てもらうため、大酉が呼んだのだ。
霧藤は鈴の着物の袖をまくると、その細い手首を握り脈を計る。
「それに、あなたもだいぶ疲れているようだ」
茶を運んできた大酉にチラと目をやる。
「私は別に……平気です」
「そうですか? 目の下に隈ができてますよ。案外うまくやっているように見えたんですけどね」
大酉もそう思うことはあった。しかし元々、自分は鈴に憎まれていてもおかしくはないのだ。
「それ、どうしたんですか」
「はい?」
「それ。首の。赤くなってますよ」
「これは……ちょっと引っ掻いてしまって」
「それはずいぶん酷く引っ掻いたものですね」
鈴に絞められたなどとは言えなかった。そんなことを知れば、霧藤は当然、鈴を病院へと戻してしまうだろう。
「まったく、それにしてもよく眠るもんだ。いったいどんな夢を見ているんだか」
霧藤は鈴の腕を戻し、大酉が入れてきた茶を手にする。
夢はその人の潜在意識の現れ。
それならば今朝、鈴が見ていたのはどういった夢だったのか。鈴は何を自分の中に押し込んでいるのだろう。
もぞと鈴が身じろいだ。
「やあ、おはよう」
うっすらと目を開いた鈴は霧藤の顔を認識すると、すぐに眉間に皺を寄せる。しかしそんな鈴と言い争いになる前に霧藤は立ち上がり、湯呑みを大酉に返しながら言った。
「それでは何か面倒があった場合は、いつでも引き取りますので。どうぞ遠慮なく」
平気だと言ったはずなのに。
そう思って鈴を見ると、口をへの字に曲げて大酉を見ている。
「あの、鈴さん?」
「どうぞ遠慮なく」
霧藤の言葉の最後を繰り返しプイと顔を背ける鈴に、大酉は小さく溜息をついた。