第九章・3
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「顔色が良くないですね、大酉さん」
霧藤が朝食を食べ終えた食卓で新聞を読みながら言った。
鈴は霧藤と朝食を食べるのが嫌らしく、早々に食べ終えて今は店の座敷部屋にいるはずだ。
結局あの後、大酉は寝付くことができず朝を迎えてしまった。
「どこか具合でも悪いんですか」
「いえ、少し寝不足でして」
「寝不足……ですか? 何か良くない夢でも見たとか」
霧藤に言われた言葉をすぐに否定できない。
「あれ、図星でしたか。どんな夢なんです」
何が霧藤の興味を誘ったのか、読んでいた新聞を閉じて霧藤は身を乗り出してきた。鈴は訊いてこなかった夢の内容について、好奇を含んだ声で訊いてくる。
「たいした夢ではないですよ。目が覚めたら忘れてしまいました」
「なんだ、そうですか」
大酉の話が聞けないことに、霧藤はつまらなそうな顔になり、そして再び何かを思いついたように口元に笑みを浮かべた。
「一つ、面白いことを教えましょうか」
「面白いこと、ですか」
「ええ。実は、鈴には人の夢に入る力があるようなんです」
「夢に……入る?」
怪訝な表情を浮かべた大酉だったが、霧藤はむしろ真面目な口調で続けた。
「そうです。鈴は眠っている相手に触れることで、その人間の見ている夢の中に自由に渡ることができる」
「……まさか。それにそんなことをしてどうするんです」
「夢は無意識の意識。その人の潜在意識の現れと言っても過言ではありません」
「潜在意識、ですか」
「ええ。日頃、自分の中に押し込んでいる、欲望や感情です。それに入り込むこみ、操ることができるとしたら――それはとても凄いことだと思いませんか」
黙ってしまった大酉に霧藤はふっと表情を緩め笑う。からかわれたのだろうか。
「何はともあれ、睡眠は生き物の生命活動において、なくてはならないものです。あまりに眠れないようでしたら、どうぞ気軽にご相談ください。市販の物でもいい薬をお教えしますから。ノイローゼになる前に。肉体的疾患より、精神的疾患の方が手に負えないことも多いですからね」
「どうも……」
精神科医の親切な一言は、逆に大酉を不安にさせるものだった。
◆◆◆◆◆◆
霧藤が出かけた後、大酉はいつものように店の掃除を始める。
鈴は今日も窓辺で庭を眺めていたが、しばらくするとまた眠ってしまったようだった。なんだか今日の鈴はひどく大人しい。口数も少なく、ただ座敷部屋の中で膝を抱えているだけ。部屋にいる限り危ないことはないとは思うが、それでは少し不憫な気もする。
眠りの時間を記録するため時計を確認し、掃除を続ける。
すると突然座敷部屋の戸がピシャンと乱暴に開かれ、中から鈴が出てきた。前屈みに口元を押さえ慌てたように店の奥へと駆けて行く。
「鈴さん?」
テーブルを拭いていた布巾をそのままに後を追うと、鈴は床に四つんばいになって吐いていた。
トイレに駆け込もうとしたが間に合わなかったようで、床を汚した吐瀉物に手をつき、肩で荒く息をしている。
「鈴さ……」
背をさすろうとした大酉だったが
「触るな!」
空気を切り裂くような鋭い鈴の声に手を引く。
いったいどうしたというのだろう。
しばらくすると、大きく上下していた肩の動きが小さくなってきた。恐る恐る背中に手をやるが抵抗する様子はない。鈴の呼吸が落ち着くまでゆっくり背をさすってやる。
落ち着いた様子の鈴を立たせると、手をトイレの洗面所で洗ってやり、大酉は床を片付けた。
「ごめん」
片付けを終えた大酉に、鈴は座敷の上がり口で膝を抱えて丸くなりながら小さな声で謝る。
「気にしないでください。それより気分はどうですか。霧藤さんを呼びますか」
「呼ばなくていい。大丈夫。前にも吐いた事はあるし」
しかし、蜃気楼に来てからは初めてだ。やはり霧藤に症状を伝えておいた方がいいのではないか。そんな大酉の心境を察してか、鈴がまた口を開く。
「夢を見ただけだから」
「夢?」
「うん、夢」
思わず、昨夜自分の見た夢を思い出す。
「どんな夢ですか」
「悪夢」
ずいぶんあっさりと鈴の口から出た、普段あまり耳にすることのないその単語。
「どんな……」
「言えない。教えたくない」
頑ななその口調に、それ以上を聞くことがはばかられる。
「ときどき夢と現実が分からなくなる」
いったいどんな夢を見ているのだろう。吐くほど気分の悪いものなのだろうか。今朝、霧藤が言っていた言葉が脳裏に蘇る。夢とはその人の潜在意識の現れだという、あの言葉。
「寝てる俺にあんまり触らないで。何するか分かんないから」
まだ少しピリピリとした空気を纏いながら、鈴は座敷部屋に入ると戸を閉めてしまった。