第九章・2
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辺りがすっかり暗くなった頃、大酉は店の前にある電飾の看板を仕舞うために持ち上げた。
あの女性客は食べた豆大福を大層気に入ってくれたようで、手土産にと数個買っていってくれた。
結局あの後、客が来ることはなかったが、それでも久しぶりに菓子が売れたことは、素直に嬉しいと大酉も感じる。
鈴もずいぶん機嫌が良さそうだ。今日は『眠り病』も昼過ぎに一度出ただけで、今は自ら進んで店の床にモップをかけている。
ここでの生活で、段々と鈴の体調は良くなってきているのかもしれない。
思いながら、看板を手に体でドアを押し開けた大酉の耳に、カラカランと床を叩く乾いた音が聞えてきた。見ればモップが転がっている。そのモップを手にしていたはずの鈴はというと、その手で顔を覆いながらふらついていた。
そして次の瞬間、膝から崩れるように店の床に倒れる。
「鈴さんっ」
駆け寄り差し出した大酉の手は間に合わず、鈴は手前にあったバケツに丁度、顔をぶつけるようにして突っ伏した。
ガシャンと酷い音がして、古いブリキのバケツが転がり床に水が広がる。
「鈴さん、しっかり……」
汚れた水溜まりの中から鈴を抱え起こす。仰向けに確認した顔には、バケツにぶつけたときのせいか、左の頬に擦り傷ができていた。そこからジワリと染み出してくる赤い色に小さく動揺する。
大した傷ではない。しかしそれは、あの日の助けを請う鈴の姿を大酉に思い起こさせた。
◆◆◆◆◆◆
しばらくして鈴は目を覚ました。
重い瞼を開いて見えた天井に、座敷部屋で毛布を掛けられ寝かされていることに気づく。視線を巡らすと上がり口に大酉が座っているのが見えた。
肩を落とし、うな垂れたその背中。
「大酉」
名前を口にしたときに、顔に違和感を感じて手をやると左頬にガーゼが当てられている。着物もスウェットに着替えさせられていた。
呼ばれた声に大酉が振り向く。
「気づきましたか」
「どれぐらい寝てた?」
鈴に訊ねられて、大酉は店の柱時計を見た。
「三十分くらいです」
「そう」
「あ、ダメですよ鈴さん」
ガーゼを止めているテープが痒くて引っ掻く鈴を、部屋に上がって大酉は止めた。
「倒れたとき、バケツにぶつけたようで」
「ああ、そっか。だから着替え……」
「すみませんでした」
謝る大酉に鈴はキョトンとする。
「なんで大酉が謝るんだ。大酉は悪くないだろ。俺が勝手に倒れただけなのに」
「霧藤さんに眠り病は危険だって言われていたのに。鈴さんに掃除なんてさせて」
「気にしなくていいよ。俺もちょっと気が緩んでたんだ。調子のって色々しすぎた」
「いえ、私が目を離さなければ、怪我をすることは」
「こんなの……ただの掠り傷だろ」
少しムッとしたように鈴は頬のガーゼを乱暴に剥がした。
確かにたいしたことのないその傷から、それでも大酉は目を逸らす。
「このぐらいの怪我、普通でもあることじゃないか」
「極力、私がなんでもしますから。もっと何でも言いつけてください」
「……へえ、何でもするんだ」
「はい」
馬鹿にしたような意地の悪い目で自分を見る鈴に、大酉は頷いた。
「じゃあ笑えよ」
「はい?」
「笑えってば」
思いがけない言いつけに戸惑う。そもそも、鈴に自分はそれなりににこやかに接してきたつもりだったのだが。
大酉が笑うのをじっと待っている様子の鈴に、大酉はなんとか笑顔を作って見せた。口の端がどうにも引きつるのを隠せない。
「下手糞」
せっかく笑ってみせた大酉に言い捨てて、鈴は毛布を被ってしまった。
◆◆◆◆◆◆
その日、大酉は夢を見た。
それはあの日の再現のような夢だった。
冷たい風にはためく黄色いカーテン。ベランダへ転がり出てくる少年と、もう一人のシルエット。
下へと落ちる少年を隣のマンションの屋上からファインダー越しに見ている自分。
ドスリという地面を打つ音。
近づき見下ろす花のない花壇に横たわる少年の体。
マンション奥の通りに現れた犯人の影。
それを追いかけようとする自分のコートを掴む手。
『なんで助けてくれなかったの』
赤い涙が溢れる目で自分を恨みがましく見つめる少年の指が、自分の首に絡みつく。
許してくれ。
声にならない声で叫びながら、大酉は目を覚ました。
暑いわけでもないのに、じっとりと首筋に不快な汗を掻いている。息が苦しい。
水でも飲もうと起き上がり、部屋を出た大酉はギクリとして足を止めた。暗い居間のソファに鈴が座っていたからだ。
「どうしたんですか、鈴さん」
「別に。昼間寝すぎて眠れなかっただけ。そっちは」
「私は……ちょっと水でも飲もうかと」
「うなされてたみたいだけど」
「ちょっと夢見が悪かっただけで……」
「へぇ……夢ね」
まさか、あの日の夢だなんてことは言えない。しかし鈴はそれ以上は聞いてこなかった。
「早く飲めば? 水」
「はい……」
鈴の横を通り台所へと向かう。冷たい水を粘つく喉に流し込んでいると、鈴がソファから立ち上がり元は輝子のものだった、今は鈴のものになっている部屋のドアを開けた。
「おやすみ」
鈴は大酉に向かって一言そういうと、ドアを閉めた。