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第九章・1

第九章


―1―


 大酉の鈴との生活が始まった。

 鈴は一日のほとんどを、客の来ない蜃気楼の座敷部屋で静かに過ごしていた。気づくと眠り病のせいか、横になってしまっているが、突然訪れるというその病気にも、特に大酉は困ることもなかった。

 初めはあまり食べることができなかった食事の量も、ニ、三日でゆっくりだが、だいぶ食べられるようになってきていた。


「少し太ったか」


 霧藤の言葉に、鈴は嫌悪を隠そうともせず霧藤を睨む。


「五月蝿い」

「なに、太るのはいいことだ。その骨と皮みたいな体は見るに耐えない」

「じゃあ、見なければいい。なんで愁成が三階に住んでるんだ。気持ち悪い」

「ここからの方が病院に近いしね。しかも広いし安い。そして管理人さんは人がいい」

「そもそも何、ちゃっかり朝食まで食べに来てるんだ」


 鈴と大酉と霧藤、三人は今、一緒のテーブルについて朝食を取っていた。

 ご飯に味噌汁、焼き鮭、海苔に小鉢の煮物といった和食の一揃い。輝子が居た頃から大酉が作るようになった、いつもとそう変わらない献立だ。


「それは鈴が文句を言う事は無いだろ。大酉さんが一人分くらい増えても手間はないからって呼んでくれた事だ。大酉さん、とても美味しいです。朝からこんなにちゃんとした朝食が食べられるなんて、本当に助かりますよ。一人暮らしだと、どうも朝は抜きがちになってしまうもので。食事代も家賃と一緒に支払わせていただきますから」

「いえ、そんなに大したものではないので」


 断る大酉に変わって、鈴が霧藤に手の平を差し出す。


「セットで千八百円になりまーす」


 それは少し高い……。

 しかし霧藤はそんな鈴の態度も気にした様子なく、小鉢の煮物を口にする。


「食が進むのは健康への第一歩だ。ほら、この煮物も美味いよ」

「ちゃんと食べてるだろ。愁成はあのまずい自分の病院のメニューを何とかすることでも考えてろ」

「病院じゃ鈴の食事はほとんど点滴で、美味いかまずいか分かるほど鈴は食べやしなかったじゃないか。うちの病院の調理師さんたちは優秀だよ」

「じゃあ、その優秀な調理師さんに朝食を作ってもらえ。まずくなるんだよ。せっかくの朝食がお前と一緒だと」


 どうにも鈴と霧藤は仲があまり……いや、ひどく良くないようだ。


「そう苛々するな鈴。発作がでるぞ」

「発作?」


 霧藤の食事が終わりそうなのを見て、茶を入れなおしていた大酉がその言葉に反応すると、霧藤はその茶を手にしながら説明する。


「ナルコレプシー患者にはカタプレキシーという脱力発作を伴う患者が多いんです。喜怒哀楽など激しく感情が昂ぶると、全身の筋肉の緊張が突然失われる。鈴にもどうやら、その症状がみられる。カタプレキシーはプラスの感情によく反応するらしいのですが」

「プラスの感情というと」

「つまり、嬉しいとか楽しいとか陽の感情です。まあ鈴はいつも不機嫌で、笑ったところを僕は見たことがありませんけどね」


 つまり今の鈴は泣くことも怒ることも、笑うことでさえ不自由だというのか。

 鈴は普段ひどく大人しい。しかし元々、鈴はとても活発で性格も明るい少年だったと霧藤も言っていた。それは、もしかして発作がでないようにしているせいではないだろうか。

 霧藤は腕の時計を見ると立ち上がった。


「じゃあ、僕はもう行きますが。大酉さん宜しくお願いします」

「とっとと行け」


 怒鳴りたいのを抑えているように言う鈴にも霧藤は涼しい顔で、上着を手にすると玄関を出て行った。




◆◆◆◆◆◆


 朝食が終わると、大酉はいつものように客の来ない店の開店準備を始める。

 鈴について大酉が驚いたことは、その菓子作りの上手さだ。自分も手伝うと言って厨房へ顔を出した鈴の手際の良さ。


「上手……ですね」


 かつては輝子に不器用と言われた大酉の豆大福作り。鈴はいかにも慣れたように、手早く均一に綺麗に丸めていく。その仕上がりの美しさ。見事だ。


「当然。俺、この店継ぐつもりだったんだから。じいちゃんとばあちゃんに仕込んでもらったし」


 やはり本当にこの店を継ぐ気だったようだ。しかし、いつ眠ってしまうか分からないような今の体では、それは確かに無理なのかもしれない。


「大酉は黒胡麻プリン作れる?」

「え、いいえ。作ったことありませんが」

「じゃあ、今度作ってやるよ。俺の自信作だから」

「ええ。是非」

「すごく美味くてびっくりするよ」


 得意気に言う鈴は、なんだか楽しそうだ。


「大酉の菓子も美味いのに、もったいないな。客が来ないなんて」

「表通りにも洋菓子屋や喫茶店が増えたみたいですし、こんな奥まった場所まで足を運ぶ方もいないでしょう」

「うーん。何か客を呼び込むいい方法があればいいんだけど」


 眉間に皺を寄せた渋い顔で、真剣に考え込む鈴の表情が可笑しくて、つい笑いそうになった大酉だったが、その顔を鈴にじっと見られてやめる。


「大酉のそれ、じいちゃんの眼鏡だろ。目悪いのか」

「ええ。でもレンズはただのガラスにしてありまして……目はいい方です。これはその、もう癖になっていて」


 歳も取り、あの頃とはだいぶ顔つきも変わった気がする。それでも顔を覆う小さな硝子板に安堵を感じる。それに輝子とのちっぽけだが思い出のようなものも感じ手放せない。


「外してみてよ。なかなか顔良さそうだし。女性客が喜ぶんじゃない」


 鈴の言葉に大酉は苦笑いした。


「冗談を」

「いや、本当に」


 言いながら大酉の眼鏡に手を伸ばす鈴。


「ちょっと、や、やめてください。外しませんよ」

「店のためだから」

「私の顔なんて見ても喜ぶ人なんていませんて」

「いいだろ。けち臭い」

「……ただ外したいだけじゃないですか。やめてくださいって。この……」


 しつこく眼鏡を外そうとする鈴になぜかムキになってしまい、大酉は眼鏡を死守する。


「あ」


 鈴の払われた手が大福の粉の袋を押してしまい、袋から舞い上がった粉に二人は盛大に咳き込む。


「ほら……鈴さんがしつこいから……」

「大酉が……すぐに取って見せれば済んだだろ」


 そっぽを向いた鈴に大酉も少しカチンときて、粉のついた顔を背けるが、店先から聞えてきたドアベルの音に再び鈴と顔を見合わせた。


「いらっしゃいませ」


 店のドアの前には、少しふっくらとした中年の女性が一人立っていて、出てきた大酉の白い粉のついた顔に驚いたように目を丸くした。

 久しぶりの客に気分が高揚する大酉だったが、


「すみません。この辺りで川島さんという方のお宅をご存知ないかしら」


 女性の言葉に肩の力が抜ける。

 なんのことはない。客として入ったのではなく、道を尋ねたかっただけのようだ。


「川島さんですね。知っていますよ。そうですね、少し分かりづらいかもしれません。今、地図を書きましょう」

「ああ、良かった。助かるわ」


 大酉が店のレジ脇で紙とペンを探していると、そこへ鈴がひょいと顔をだした。


「どうぞ、座ってお待ちください」


 にっこり笑って女性に椅子を勧める。女性も着物を着た小柄な少年の姿を見て笑顔になる。


「あら。有難う」

「お急ぎなんですか」

「え? いいえ。別に急いではいないのだけど」

「良ければお茶はいかがですか。今、お茶菓子の豆大福も作りたてで柔らかいですよ」

「まあ……」


 鈴の言葉に大酉は驚いたが、女性の方は可笑しそうに笑った。


「じゃあ、せっかくだから一つ頂こうかしら」

「はい。ただいまお持ちします。少々お待ちください」

 

 厨房へ下がる鈴に大酉は呆気に取られる。


「すみません、何か無理を言ったようで」

「いいのよ。甘いものは好きだから。なかなか商売上手な息子さんね」

「え、いや……はあ……」


 大酉は女性が言った言葉を否定しようとしたが、そうすると、じゃあどういう関係なのか不審に思われそうだったので、曖昧な返事をしておいた。


「お待たせしました」


 盆にお茶とお菓子をのせ戻ってきた鈴に、自分もこのぐらいの背格好の子供がいても、おかしくはない歳だということをふと考えた大酉は、変なことを考えたと手元の地図を書くことに集中することにした。


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