第八章・1
第八章
―1―
ガクリと落ちた首に大酉はハッと目を覚ました。そして目の前の空のベッドを見て、座っていた椅子から立ち上がる。
昨夜、霧藤が帰った後、座敷部屋を見ると、あの少年は畳の上に倒れていた。驚き慌てて近寄ると、聞こえてきたのは小さな寝息。声を掛けても起きない少年をそっと抱え、このベッドへ運んだはずだったのだが……。
あれは夢だったのだろうか。
大酉は部屋を出た。そしてその場に立ち尽くす。
あの少年が仏壇の前に立っていた。手に、いつもそこに置かれている家族写真の入った写真立てを持ち、見つめている。
「おはよう」
少年が部屋を出て来た大酉に気づき、写真から顔を上げて言った。
夢ではなかった。
「君は……朝日奈 鈴君……なんだね」
大酉の問いに少年は視線を落とした。
「さあ。どうだろう。自分が誰かなんて、周りの誰かが認めてくれなきゃ分からない」
写真立てを元の場所に戻しながら少年は言った。
朝日奈 鈴の家族はもういない。誰よりも何よりも簡単に、少年の存在を認めてくれるはずの人たちは、もういないのだ。
「霧藤さんは、君が朝日奈 鈴だと言っていた」
「ああ、霧藤 愁成ね」
少年が眉間に皺を寄せた。
「愁成が言うには、俺はこれでももう二十八歳なんだって。凄くない? あいつより年上なんだ。……こんなナリでも」
苦々しい口調の自虐的な言葉を口にして、小さく唇を噛み締める少年に掛ける言葉が見つからない。
「あなたはもう、ずっとここにいるんですよね」
粗暴な口調から急に丁寧な言葉使いになって訊く少年に、大酉は頷く。
「そう……。有り難うございました。祖母が逝くときに傍にいてくれて」
少年が腰を折り深々と頭を下げた。
ああ、この子は――。
この子は朝日奈 鈴だ。輝子の自慢の『うちの鈴』なのだ。
「頭を……頭を上げてください。私は君に……いえ、あなたに頭を下げてもらえるような人間ではないんです。私は…………私は――」
「知ってるよ」
改まった口調をやめた鈴の言った一言が信じられず、大酉は目を見開く。
「知ってる。十三年前。あの事件の日、あなたに起こったこと。大酉 圭介さん」
名前まで。
「じゃあ、わかるでしょう。あの日私はっ」
「あなたは別に俺や、俺の家族を殺したわけじゃない。俺は別にあなたを恨んだりはしてないよ。あなたはただ、運悪くあの場に居合わせただけじゃないか」
違う。『運悪く』ではない。
あの日、あの出来事が目の前で起きたとき、自分はあれをチャンスだと、運が廻って来たと思ったのだ。
「俺、あの日からずっと眠ったままだったんだって。目が覚めて、あれから十三年経ってるって知って、みんながもういないって知って――それでも蜃気楼はまだここにあるって聞いて……嬉しかった。あなたのおかげだ」
輝子は鈴が生きている事を知っていたはずだ。
自分の死が近くなったことを知り、もし鈴が目を覚ましたとき、自分と蜃気楼が無くなってしまっていたら……。
そんなことを輝子は考えたのかもしれない。すべては鈴のために。
大酉は背の小さな鈴の前に両膝をついた。少しだけ驚いたような顔をしている鈴を見上げる。
「私はただの店番です。あなたが帰って来るまでの。皆さん、ずっと、あなたが帰って来るのを待っていました。この店はあなたのものだ」
しかし、鈴はそれを聞くと眉を寄せた。
「そんなこと言われてもな……」
困ったような小さな呟きが聞こえた。
どうしてだろうか。鈴はこの店を継ぎたいと言っていたと聞いた。ただ単に祖父母を喜ばせるためのリップサービスだったのだろうか。
それとも、あれから十三年。かつての活気のない、すっかり寂れてしまった店を目にして、心変わりしたのだろうか。
「それで、今日は店は?」
ふいに鈴が訊いた。
「え、いや、今日は……」
「まさか、俺が来たから店を開けないとかないよね」
鈴に睨まれ大酉は詰まる。
もっと話たいことが、訊きたいことが、伝えなければならないことがたくさんある。店どころではないと思うのだが。
「テルばあちゃんがいたら、そんなの許しませんよ! って言うはずだけど。ほら、早くいつも通り準備しなよ。ばあちゃんはこの時間にはもう下に降りてたよ」
「は、はいっ」
輝子に少し似た口ぶりで言われ、大酉は慌てて身支度を整えに部屋へと戻った。
◆◆◆◆◆◆
大酉は焼き上がった出汁巻き卵を切ると、ふわりと黄色いそれを皿に載せ朝食のテーブルに並べた。煮立たぬように味噌汁の火を消し、ちらと輝子の部屋を見る。
大酉が朝食の用意を始めると、鈴は輝子の部屋に入って行ったのだ。
もともと自分の祖父母の家ということもあり、勝手を知っているようで、何やらごそごそと探していたようだったが、気になって見ていると、鈴に睨まれたのでやめた。
部屋に入ってからだいぶ経つのだが……。
大酉がそわそわしだした頃、部屋のドアが開いて鈴が出て来た。その姿に目を見張る。
「体ニ周巻けちゃうかと思って焦った……」
ぼやく鈴が着ていたのは和服の着物。そういえば、鈴は着物を一人で着られるのだと輝子は言っていた。
丈はぴったりだったが、鈴自身がぼやいたように、体に巻き付けるそれは、鈴の体の細さをよく表していた。おそらく鈴のものなのであろうその着物は、色の濃い藍染めにうっすら波の模様が入ったもので、鈴の肌の白さを一層白く見せるようだった。
まだ幼さの残る顔立ち、黒く艶のある髪と相まって、その姿はまるで人形のように見える。
更に菖蒲色の羽織りを手慣れたように着込んで、鈴は大酉の視線に気づき首を傾げた。
「変?」
「いえ。可愛いですよ。とてもお似合いで」
褒めたつもりだったが、とたんにその可愛い顔をひどく不細工に歪め、鈴は不機嫌そうに荒い足取りで大酉の前を通り過ぎると、どっかりとテーブルに座った。
確かに可愛いという褒め言葉はなかったかもしれない。十五歳だった当時でも、鈴は小柄な方だっただろう。最近の子供は発育がいいので、鈴はもっと幼く見える。
先程、自嘲気味に言っていた言葉を思い出す。
『俺はこれでももう、二十八歳なんだって』
十三年前、ただでさえ子供扱いされるのを嫌う年頃だったはずだ。それでも子供だった当時と違い、事実上、今の朝日奈 鈴は二十八歳ということになる。かなり複雑な心境であることは間違いないだろう。接し方には気をつけなければならない。
「あの、どうぞ」
茶碗に盛ったご飯と味噌汁を鈴の前に置くと、渋い顔をしながらも鈴は箸を取り「いただきます」とちゃんと手を合わせ、味噌汁を口元でふーふーやりはじめた。
どうやら熱いのが苦手なようだが、ちびちびと口をつけている様子に安心して、大酉も自分の箸を取る。
しかし、しばらくすると鈴は箸を置いてしまった。味噌汁は空になっていたが、茶碗のご飯は半分も減っていないし、出汁巻きの卵も二口ほどしか手をつけていない。
「口に合いませんでしたか」
訊いてみると、鈴は黒い瞳をぱちくりさせる。
「え、ああ、違うんだ。すごく美味しかった。ただ俺、まだそんなに食べられなくて。口で物食べ始めたの、つい最近なんだ。ごめんなさい」
「い、いいえ、こちらこそ。すいません。気づかなくて」
うつむく鈴に慌てて謝る大酉。その様子に鈴はまた眉間に皺を寄せた。
「大酉さん」
「あ、私のことは大酉でいいです」
「え。何? そういう趣味?」
眉間の皺を深くして、顔に似合わぬことを言う鈴に思わず脱力する。
「……いえ。テルさんにそう呼ばれていたもので、その方が呼ばれ慣れているものですから。私は雇われてた身ですし」
それに、自分は鈴にそんな風に呼んでもらえる人間ではない。
「まあ……いいけど。じゃあ…………大酉」
「はい」
かなり呼びづらそうに言った鈴に返事を返す。
「大酉は何でこの店にいるの?」
「はい?」
「だって、ばあちゃんもいなくなったわけだし、この店を続ける必要はなかったはずだろ。売って、別のことを始めることだってできたはずだ。やっぱり、俺のことがあったから?」
探るように大酉を見る鈴に、一瞬、大酉は答えに詰まったが、一度静かに息をつくと口を開いた。
「初めは……そうでした。でも、今では私にとってもこの店は大事なものなんです」
嘘ではない。しかし鈴に対しての贖罪の気持ちは、やはり大きく心の中にある。
「ならいいけど」
少し疑うような視線を大酉に向けながら、鈴は大酉が入れた食後のお茶に、また息を吹きかけた。