第七章・3
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その日、朝から降っていた雨は日が落ちてきても、しとしと降り続いていた。
ここニ、三日はずっと天気が悪い。そしてこんな日はもう客が来る事もないのだ。
大酉はいつものように看板を店の中に入れ、営業中の札を裏返しドアの鍵をかけた。
客がつかなかったテーブルも丁寧に拭き、濡れた床にはモップを掛ける。厨房の片付けも終えると、大酉は店の明かりを落とした。
表よりも暗くなった店内を見回し二階へと上がろうとした大酉は、ふと目の端に映った物に足を止め、もう一度店へと視線を戻す。
入り口のガラスの向こうに浮かび上がった、しゃがみ込んでいる人のシルエット。
雨宿りでもしているのだろうか。
大通りからかなり奥に入ったこの場所まで、わざわざ軒下を借りに来るなんて妙な気もするが。元々この辺りに用事でもあったのだろうか。
早めに店仕舞いをしてしまったのは気の毒だったかもしれない。再び店を開けることはできなくても、傘くらいなら貸すことはできる。
大酉はカウンター席上部の明かりだけを点け、再びドアへと向かう。
近づいて見ると、その人影はなんだかずいぶん小柄だった。
ドアにもたれるようにしているその人を、驚かさないようにそっとドアを開ける。
「すみません。今日はもう店仕舞いをしてしまって。よければ傘をお貸し――」
にこやかに言葉をかけた大酉だったが、その言葉を途中で失った。
口元が……いや、顔全体が強張っていくのを感じる。
後ろで開いたドアにその人は、雨に濡れた体を自分で抱えるようにしゃがみ込んだまま、ゆっくりと首を捻って大酉を見上げた。
雨のせいもあり寒さは一層厳しくなっている。なのにまるで寝間着のような薄着姿で、小さく肩を振るわせているその人は、まだ幼さの残る少年だった。
濡れた髪が額に張り付き、雫が頬を伝って顎から滴っているその顔。
あの日は雨ではなく赤い血が、口元から流れていたその顔。
仏壇に飾られた照子の写真の横で今も笑っているその顔。
本人を自分の目で見たのはたった一度だったが忘れない。
大酉を見つめるその顔は、まぎれもなく『朝日奈 鈴』だった。
外の冷えた空気のせいだけではない寒気が大酉の全身を襲う。
なぜ。
今頃になって、自分を呪いにでも来たというのか。
ゆらりと立ち上がった鈴に、大酉は思わず店の中へと一歩後ずさる。
鈴が青ざめた唇をうっすら開いた。
「……たすけて」
あの日と同じ弱々しい声で、あの日と同じ言葉を口にした鈴は、そのまま崩れるように店の中へと倒れ込んで来た。
思わず支えようと出した手に握った鈴の腕は、死人のように冷たかったが、確かに肉の感触があった。尤も、ひどくやせ細った腕は肉というより、骨と皮といったほうが正しいように思える。
それでも幽霊なんかではなく、実体のある生きた人間の感触だった。
これは『朝日奈 鈴』ではないのか。
いや、むしろそう考えるのが普通なのだ。鈴は十三年前に死んでいる。もし仮に……仮に生きていたとしても、あれから十三年が経っているのだ。この少年が鈴であるはずがない。
ならばこの少年はいったい誰なのか。
「もしもし。君? 大丈夫かい。しっかりするんだ」
やっと掛けた声は心なしか震えていたように思う。
すると少年は大酉の着物を掴んで顔を上げた。その手に、あの時コートの裾を掴まれたことを思い出す。黒い瞳にじっと見つめられ、大酉はざわめく胸を押さえられない。
「お願い。俺を匿まって」
頼りなげに眉を下げ、怯えたように言った少年の言葉は意外な物だった。
「匿まう?」
「怖い人に追いかけられてるんだ」
切羽詰った声で懸命に訴える少年に大酉は戸惑う。
見ると少年の足元はサンダルを履いただけの裸足だ。いったい何があったというのだろう。
虐待。まず頭い浮かんだのはそんな言葉だった。
「……お願いです。助けて下さい」
迷っている大酉に、丁寧な口調になり少年はまた助けを求める。
どうする。
また見捨てるのか。
……あの時のように。
「少し落ち着いて。今、タオルを持ってきてあげるからね」
とりあえず少年を店の中へと促す。二階へと上がりバスタオルを手にして、少年の濡れた薄着を思い出し、自分のトレーナーの上下をタンスから取り戻った。
「さあ、濡れたものを着替えた方がいい。そのままだと風邪を引くよ。君には大きいかもしれないけど、今の君の服よりはましなはずだ。そこで着替えておいで」
少年にタオルとトレーナーを渡し座敷部屋を指す。少年はにこりともせずに渡されたものを抱えると、大酉の顔をまた見る。
「有難う。親切だね」
先ほどの怯えていた声とは違い、しっかりとした声で少年は言ったが、その口調は抑揚がなくどこか冷めた印象を受けた。
座敷部屋へと上がった少年が戸を閉めると、大酉は大きく息をつく。
さあ、どうする。
今のうちに警察にでも連絡をした方がいいのではないか。
しかし……本当にそれでいいのだろうか。
突然目の前に現れた、かつて自分が見殺しにした少年に瓜二つの人間の出現に、大酉は混乱していた。
しかも、また大酉に助けを求めているのだ。
「……着替え終わったかい」
「終わったよ」
返ってきた返事に戸を開けると、タオルを頭に引っ掛けながら、少年は大きすぎるズボンの裾を折り返していた。
いったいこの子は、誰なんだろう。どこから来て、いったい誰に追われているというのか。
大酉が尋ねようと口を開いたその時、入り口の方で物音がした。少年が厳しい顔つきでそちらを睨む。
「見て来るよ。君はここにいて」
大酉は少年を座敷部屋に残し戸を閉めた。
決めたのだ。あの少年が自分に助けを求めるなら、自分はあの少年を助けよう。今度は見殺しになどしない。あの時と同じ過ちを繰り返したりなど、二度としない。
暗い店内のドアの前に誰かがいた。
「すみませんが、今日はもう閉店です」
大酉は少し緊張して、その人物に向かって言ったが、
「そうですか。それは残念だ」
大酉の言葉を気にした様子もなく、店の中へと更に一歩足を進めて来た人物の、もう見知った顔に大酉の緊張が緩む。
「霧藤さん」
「こんにちは。もう、こんばんは、ですかね」
いつものように爽やかな笑顔で、霧藤は背広についた雨の雫を払った。
店に入ってきたのが霧藤と分かり、大酉は小さく息をついた。
「すみません。見ての通り、今日はすっかり店仕舞いしてしまっていて」
「いえ、こんな天気ですしね。こう雨が続くと、商売上がったりじゃないですか。こんな日は外に出ないで済むならそうしたい」
「そうですね。でも、うちはいつもお客さんは少ないですから」
しかし、それなら霧藤はいったい何をしに来たのだろう。
そもそも、店の明かりは今、カウンターの上しか点けていないし、看板も仕舞ってある。ドアの鍵は先ほど少年を入れたときに開けたままだったが。
それでも、蜃気楼が閉店していることは分かったはずだ。それなのに霧藤は店の中に入ってきた。
その行動を少し変だと、大酉が感じ始めたときだ。霧藤が言った。
「ところで、今しがた、ここに誰か来ませんでしたか」
大酉は思わず目を丸くして霧藤を見た。霧藤も大酉を見ている。いつもと同じ微笑を口元に浮かべながら。
「……誰かとは」
答えず聞き返した大酉に、霧藤が少し目を細める。
「少年です。まだ中学生くらいの。来ませんでしたか」
どういうことだ。あの少年が追われているというのは、霧藤にということなのか。少年の言う“怖い人”というのは、霧藤のことなのか。
「大酉さん?」
「来ませんでした」
答えを促す霧藤に、大酉は答えた。嘘の答えを。
「誰も来ませんでした」
「そうですか」
霧藤の視線が店の床に落ちる。モップを掛けた床に、ドアから座敷部屋へと水の足跡が続いている。座敷部屋の上がり口の下には、少年の脱いだサンダルがそのままだ。
大酉は霧藤の視線を遮るように、霧藤の前に立った。
「すみません。今日はもう私も休ませていただきたくて。またお越しください」
すると、霧藤の表情が変わった。呆れたような感心したようなそんな表情。
「なるほど」
溜息をつきながら店の奥の方を見ると、霧藤はよく通る声で誰もいないはずのそこへ向かって言った。
「鈴! いるんだろ。出てくるんだ!」
大酉は息を呑んだ。今、霧藤が口にした名前は――。
しかし、座敷部屋の戸が開くことはなかった。店の中は静まり返っている。霧藤が座敷部屋の方へ一歩足を踏み出し、大酉はその腕を掴んだ。
「お帰りください。誰もいないと言ったでしょう」
事情が分からないまま、あの少年を匿うことが良いことなのかは分からない。しかし、ここであの少年を霧藤に渡したら、大酉自身がまた後悔をするような気がする。
そんな大酉の行動に、霧藤はまた口元に笑みを浮かべた。ただし、いつも見慣れた爽やかなそれとは違い、冷たくどこか意地の悪い物に見えた。
「彼がどんな風に言ったかは分かりませんが、僕は別に彼を悪いようにはしませんよ。ただ、元いた場所に連れて帰るだけです」
すでに霧藤はここに少年がいると決め付けている。
「あれは頭の回転のいい子でしてね。まあ、おそらくは同情を誘うような演技でも、して見せたんでしょう。彼の演技には騙される人も多いですから。本当に困ったものですよ」
少し大きめの声は、座敷部屋にいる少年自身に聞かせるためか。
「……いい加減にしろ。私はそんな子は来ていないと言ったんだ。帰ってくれ。警察を呼んでもいいのか」
久しぶりに荒くなった口調に大酉自身も驚いたが、霧藤もキョトンとした顔で大酉を見て、次の瞬間、くっと吹き出しそうになった口元を押さえた。
何が可笑しい。
「呼べばいいでしょう。いや、その方が手っ取り早いかもしれない。ぜひ呼んで欲しいですね。言ったでしょう。僕は精神科医でしてね。彼は僕の患者なんです。精神科の患者が病院から抜け出したなんて、大変なことだということぐらい、あなたでも分かるでしょう?」
あの少年が霧藤の患者。
「それに、あなたは警察が嫌いなんじゃないんですか」
少し声を潜めて言った霧藤に、体が固まったように動かなくなる。
「僕が知らないとでも思っていたんですか、大酉 圭介さん。知っていますよ。あなたが十三年前に何をしたのか。いや、しなかったという方が正しいのかな。罪滅ぼしでもしているつもりですか。……あの日は助けなかったのに」
違う。
あの日の罪が滅びるなんて思っていない。
「帰ってください。あの子は渡しません」
大酉は少年がいることを明らかにしながらも、霧藤に少年を会わせる気がないことを伝えた。
「……いいでしょう。今日はあなたに預けます。せいぜい正義の味方の気分にでも浸るといい」
くるりと大酉に背を向け、霧藤はドアを開けた。
「そうだ、一ついいことを教えましょう。彼はまぎれもなく朝日奈 鈴。十三年前にベランダから落ちた、朝日奈家の次男です。幽霊でもなければ、よく似た他人でもない」
傘立てに入れていた傘を開き、にっこりと微笑む。
「では、また明日」