第七章・2
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ドアベルの音がして、入ってきた人物に大酉はにっこりと微笑んだ。
「どうでしたか」
「ええ、確かに少し傷んでるところもありましたけど」
言いながら大酉に持っていた鍵を返す男。
「中にあった本棚とかはそのまま使ってもいいんですか」
「いいですよ。処分するならするで、言ってくだされば前もってしておきますし」
「そうか……うん、やっぱりいいな」
男、霧藤 愁成は口元に手をあて、少し迷うように考えている。そんな仕草が自然で様になる男だ。
あれから三日後に、霧藤は本当に部屋を見せてくれと再び店にやってきたのだ。
「どうぞ、ゆっくり決めてください。焦らなくても、他の借り手が現れることはたぶんないですから」
「本当ですか? そんなこと言って、素敵な女性の借り手が現れて、そっちに貸すことにしましたなんて言わないでくださいね」
「ああ、それは迷いますね」
「そんな。お願いしますよ」
そんなにこのビルが気に入ったのだろうか。近くには新築のマンションもアパートもある。霧藤の身なりから察するに、収入も悪くないはずだから、家賃の安さというのはそれほど問題ではないように思えるのだが。
懐古趣味というものだろうか。
霧藤は腕の時計を見るとカウンター席についた。
「すみません。お茶とお菓子をいただけますか」
「はい、ただいま」
どうやら、大酉の作った菓子の味を好みと言ったのは、本当にお世辞ではなかったようだ。
「今日はお仕事は」
盆に載せた菓子と茶を出しながら、今日は大酉から訊ねる。
「ええ、この後に」
「名刺にクリニックとありましたが……お医者さんなんですか」
「そういうことになります。勤めているクリニックが、ここから結構近いんですよ。そこのバス停からバスで十分ほどの所で。だから、もしここを借りられたら、今住んでる所より通勤にも便利でしてね」
霧藤は菓子に黒文字を刺した。
今日の菓子はわらび餅。弾力のある食感と滑らかな舌触りの餅は、口に入れれば喉につるりととろける。風味の良いきな粉に黒蜜がからんで、香ばしい甘みが口の中に広がる。
一口食べた霧藤の顔がほころぶのを見ると、大酉も満更でもない気持ちにさせられる。
「まあ医者といっても精神科医なんですが」
「精神科……ですか。それはまた、大変そうですね」
「実際にメスで体を切り開くのとは違った難しさはありますが、実に興味深い仕事だと思いますよ」
「どんな患者さんがいるんですか」
「小さな欝から、幻覚を見るようなものまで症状は様々です。本人に自覚があるものからないものまで」
霧藤は落ち着いた見た目よりも、よくしゃべる男だった。精神科という職業柄、患者との対話が重要になるからなのかもしれない。
大酉にはとても、そんな仕事はできそうにない。しかし霧藤との会話は思いのほか弾む。やはり霧藤の話し方がうまいのだろう。
「大勢の患者と接しているうちに、ときどき思うことがあります」
「なんですか」
「誰より自分が一番、精神を病んでいるのではないか、と」
「……」
大酉が返す言葉に戸惑っていると、霧藤が可笑しそうに肩を揺らし、大酉は苦笑した。
「患者さんの前では冗談でもそれ、言っちゃダメですよ」
◆◆◆◆◆◆
カタカタとキーボードを叩く音は小さくても、店内が静かだと意外と大きく聞えるものだ。
「どうぞ」
茶とお菓子を運んできた大酉に、霧藤は顔を上げた。
「ああ、有難うございます」
あれから、霧藤は頻繁に店に顔を出すようになった。まだ三階の部屋の契約はしていないが、こうして何度も足を運んでくれる客ができたことは、大酉には喜ばしいことだった。
「すみません、迷惑じゃないですか」
店の奥のテーブル席で、ノートパソコンを開いていた霧藤はそれを一度テーブルの端へと寄せ、大酉の運んできた菓子を手元に引き寄せる。
「見ての通り、他にお客さんもいないですし。気にしないでください。……それもお仕事ですか」
「これは仕事というか、知り合いに頼まれまして……手伝いみたいなものです」
「手伝いですか」
「雑誌の一ページにちょっとした文章を」
「ああ、コラムみたいなものですか」
「まあ……そんなようなものです」
小さく笑いながら、霧藤はおしぼりで手を拭くと、湯呑みを口に運んだ。
若い医者の知識を交えた、評論のようなものなのだろうか。なんにしろ若いのに多才なことだ。
霧藤は茶を飲み終えてからも、しばらく席でキーボードを叩いていたが、ふと腕の時計を確認するとノートパソコンを閉じて立ち上がった。
「お帰りですか」
「ええ。ご馳走様です。……あ、そうだ」
財布を開いた霧藤は何か思いついたように、自分が食べた菓子の代金よりも、多い金額を大酉の差し出したトレーの上に置いた。
「今日のお菓子、持ち帰ることできますか」
今日の菓子はどら焼き。餅と違い固くなることもないし、四、五日は日保ちするものだ。
「大丈夫ですよ」
「それじゃあ、三個ほどいただけますか。知り合いが和菓子を好きでして。ぜひ大酉さんの作ったお菓子を食べさせたい」
「それはそれは。有難うございます。今、包みますので、ちょっとお待ちくださいね」
いったい誰だろうか。病院の同僚か。
その人も気に入ってくれるといいのだが。
思いながら、大酉は薄い和紙にどら焼きを一つ一つ包むと箱に入れた。