第七章・1
第七章
―1―
それまで店の中に居た客が帰ると、大酉は時計を見た。六時を少し過ぎた辺り。少し早いが店を仕舞う準備を始める。
この頃は、この時間を過ぎて客が来ることはほとんどなかった。
輝子が亡くなって三年。
大酉が蜃気楼に来てから十一年目の冬だった。
輝子の死は静かなものだった。眠ったまま起きてこなかったという陽一郎と同じく、いつものようにお休みと言って床に就いたその日の夜、輝子は永遠の眠りについた。
店の前の開けた空き地だった場所には、昨年、背の高いビルが建ってしまって、店は昼間でも薄暗く人通りも少なくなってしまった。
常連客だった中井も他界し、葬式で顔を合わせた山本や宮田も、その後から段々と姿を見せなくなった。
せっかく輝子から受け取った蜃気楼を、自分が廃れさせてしまったようで申し訳ないと大酉は思う。
看板を仕舞おうと外に出た大酉は、店の上の階へと上がる入り口の前に、人影があるのに気がついた。
「あの、何か」
声を掛けると人影がこちらを向いた。
その人物は背の高い男で、薄暗い空の下、店の中からもれる窓の明かりで見えた顔は、まだ若いように見えた。
男はにっこりと大酉に向かって微笑んだ。
「すみません。この張り紙がちょっと気になって」
男が指差す壁には、入居者募集と書かれた紙がある。
蜃気楼の三階にあった事務所、個人経営の探偵事務所だったということを後から知ったのだが、不景気のせいか半年ほど前に事務所を畳んで出て行ってしまったのだ。
ただ開けておくのも勿体無いと思い、貸し出すビラを貼ってはおいたのだが。
「本当にこの値段でいいんですか」
男の質問に大酉は苦笑いした。
「ええ。古いビルですし。駅から近いわけでもないですしね」
「そうですか。いや、でも安いですよ」
「良ければ、中をお見せしますが」
「ええ、今度ぜひ。あ、それよりも……」
男が店を見て言った。
「今日はもう閉店なんですか」
◆◆◆◆◆◆
「驚いた。美味いですね」
豆大福を頬張った男が嬉しそうに言った言葉に、大酉もつい笑顔になった。
「僕は甘いものが好きでして」
まあ一つでも売れ残る菓子が減るのは大酉も嬉しい。
店内の明かりの下で見た男は、外で見たよりも更に若く見えた。二十代前半といったところだろうか。顔立ちも整っているし、身なりも良い。スーツやネクタイなど、パッと見て安物ではないことが分かる。
和菓子というよりは、高級な専門店のスイーツの方が似合う気がした。
「それは有り難うございます。でも、もっと美味しい店ならいくらでもあるでしょう」
「お世辞じゃないですよ。僕の好みの味です。確かに、もっと美味い和菓子を食べたこともありますが」
それはわざわざ言わなくても……。
大酉は思ったが、にっこりと向けられた爽やかな笑顔に苦笑いを返す。
「ええと、ご主人は――」
「大酉と言います」
「大酉さんはこの店はもう長いんですか」
茶を飲みながら、店内を見回す男。レトロな雰囲気を残す内装が珍しいのだろうか。
「ええ。もう十一年になります」
「十一年……ですか。それはずいぶんと長いですね」
「はい。もっとも、三年前まではこの店はテルさんという方のものでして」
「今では大酉さんお一人で?」
初対面でずいぶん色々と訊いてくる男だ。
「そうです」
「奥さんとかは」
男の質問に大酉はポカンとした。
「いえ、私は独り者でして」
まだ輝子が元気だった頃、宮田がお見合い写真を持ってくるなんてことがあったのを思い出し、大酉は笑った。そのときもすぐに断ったのだが。
誰かと添い遂げるなどということは、どうにも考えられなかった。
誰かを幸せにする、誰かと幸せに暮らすなど。
「そうですか」
男は茶を飲むと立ち上がった。
「ご馳走様でした。ああ、部屋、今度もう一度来ますので、そのとき見せていただけますか」
「ええ。いつでもどうぞ」
「もし、その前に他の借り手が見つかったときは、ご連絡もらえると助かるんですが」
「いいですよ」
たぶんそんな人間は現れないと思うのだが。
頷いた大酉に、男は胸元から名刺を取り出すと手渡す。
「では、宜しくお願いします。すみませんでした、もう店仕舞いをするところに」
「いえ」
「失礼します」
礼儀正しく言って、小さく頭を下げると男は帰っていった。
大酉は名刺を見た。そこには『霞野心療内科クリニック 霧藤 愁成』と書かれていた。