第一章・1
第一章
―1―
畜生。
寒い日だった。
マンションの屋上は風を遮るものもなく、容赦なく大酉の体温を奪って行く。
開いていた黒いミリタリーコートの襟を掻き合わせた大酉は、コートの裾についている釦が取れかかっているのに気がついた。
煙草をくわえた口の端で、思わず小さく舌打ちをする。
カメラを持つ手が震えた。
手ブレした写真では突き返される。大酉はポケットに入っているカイロで、穴の開いた手袋から出ている指先を暖めた。指先まで手袋で覆ってしまうと、どうしてもシャッターを押す感覚が鈍る気がする。
大酉はカメラマンだった。
それも三流ゴシップ雑誌専門の。
もっぱら芸能人のスキャンダルや、政治家の裏事情を隠し撮りするのが、大酉の仕事だった。
仕方が無い。これで飯が食えるんだから。
今もある大物政治家が三十近く歳の離れた若い女と、あるマンションで会っているという情報が入って、ここに来たのだ。
車が走ってくる音がして、大酉は咥えていた煙草を足元のコンクリートに押し付け消すと、手すりの隙間から望遠カメラで下を覗き込んだ。しかし車は止まらず通り過ぎて行く。
予定の時間をとっくに過ぎていた。今日はもう来ないかもしれない。
向かいに見えるマンションの五階が、その情報のあった場所。
ごく普通の住宅街。一般の家庭より少しグレードは高いが、高級というほどではない――とはいえ、大酉にはとうてい住めそうになかった。
夜なのに明りがついていない部屋も目立つ。
なんでこんなところ……と思ったが、こんな所のほうが見つかりづらいと考えたのだろう。しかし、見つかるときは、どんな所にいても見つかるものだ。
できれば玄関側。
二人がやって来て、一緒に部屋に入る瞬間を押さえたかったが、そちら側にあるマンションの入り口には、ご苦労なことに管理人がいて、屋上へと上がることができなかった。
ここからだとベランダしか見えない。
しかも部屋にカーテンが引かれてしまって、部屋での二人を撮るのは難しい。夜ともなるとなおさらだ。朝まで張り付いて、カーテンを開けるまで待たなければならない。それでも撮れるとは限らないのだ。
くそ。
まあ、いつもハイヤーで来ているという情報だったから、最悪は通りからマンション入り口までの間を押さえられればいい。そうすれば、後は記事を書く奴らが面白可笑しいタイトルと、事実と未確認の情報を混ぜた文章で仕上げてくれる。
大酉は溜息をついた。
口から出たそれは、煙草の煙のように白く風に吹かれ消えて行く。
目指していたのは報道カメラマンだった。
撮りたいのはスキャンダルじゃなくスクープだった。
一部の人間の好奇を満たすのではなく、大勢の人間の注意を引き、関心を集めるものが撮りたかった。
かつては、自分にそれができる才能も可能性もあると思っていたし、希望も自信もあったのだ。
しかし、それらはひどくあっけなく崩れていった。
人に言わせれば、所詮その程度の志しだったのだと、己の弱さを指摘されるだけなので、いつの間にか友人と呼べる者も減っていった。
己のことしか考えず、学生の時に勘当同然で飛び出した田舎の実家には、今年の正月にも帰ることはなく、もう連絡も取っていない。
そして、自分の想いとは違った形でもカメラしかない大酉には、この仕事でたいして住み心地の良くないアパートの家賃と、生活費を稼ぎだしていくしかなかった。
チャンスがないだけなんだ。
チャンスさえあれば、俺だって。
そのとき、大酉の耳にガシャンという破壊音が聞こえた。
なんだ?
音のした方へ目をやる。
明りのない部屋が目立つ六階で、明りが点いている角部屋から、また何かが壊れる音がした。
望遠レンズで確認すると、黄色いカーテンに中で人が走り回っているような人影が映る。
何をしているんだ。
夫婦喧嘩か何かか。
カーテンが開かないだろうか。
記念に一枚撮ってやる。
すっかり退屈していた大酉は、その部屋にカメラを構えてシャッターに指をかけていた。
すると、ベランダの窓が開けられた。カーテンを揺らしながら、中から誰かが転がり出てくる。何か様子がおかしい。
ベランダに出て来た人影をファインダーで追いかける。それはまだ小柄な子供。少年だった。
ふらふらと腕を押さえながら、ベランダにもたれかかっている。怪我でもしているのだろうか。
部屋からの明りで逆光になり、顔はよく見えない。
ファインダーを食い入るように覗き込む。
「おいおいおいおい……」
思わず大酉の口から、そんな声がもれた。
少年がよろけながらベランダの縁によじ登ったのだ。少年の胸ほどもある高さの、ベランダの縁は太くはない。何をしているのかと見ていると、どうやら少年は隣のベランダへ飛び移ろうとしているらしい。
隣のベランダまでは結構な隙間があり、手を伸ばしたくらいでは到底届かない。
「まてまてまて」
どう考えても無理だろう。
そこへゆらりと部屋の中から、少年とは別の人間が出て来た。
誰だ?
その人影は少年へ手を伸ばす。
しかし、それは少年を救うために伸ばされたものではなかった。
少年が落ちた。
それはひどくあっけなく、一瞬の出来事で、大酉は息をするのを忘れた。
ただ、大酉のカメラはしっかりと落ちていく少年を追い、その指は連続してシャッターを切っていた。
バサバサと木々の間を抜けた少年の体は、駐車場に停められた車の陰になり確認できなかったが、ドスリという重い音が、少年の体が地面に叩きつけられたことを大酉に知らせる。
とっさにカメラをベランダへと戻すと、部屋の逆光になった人影がこちらを向いていた。
はっとした大酉は柵の下に身を隠した。
目が合った?
……いや、そんなはずはない。
こちらに気づくはずはない。
高鳴る心臓に、白い息が漏れる口元を押さえる。
恐る恐る、ベランダの様子を探るため、そっと柵から顔を覗かせる。
ベランダにはもう人影はなかった。開け放されたままの窓にはカーテンがはためいている。
今のはいったい……。
目の前で起きたことが、本当に起きたことだったのか、大酉には分からなくなっていた。
大酉はカメラの機材を抱えると、慌てて屋上から階段を駆け下りた。