第六章・3
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大酉はお粥を載せた盆を片手に、もう片方の手でドアをノックした。
「テルさん。食事ができました」
「お入り」
部屋に入ると、輝子はベッドの上で上半身を起こし本を読んでいた。
「ダメですよ、テルさん。寝ていなくちゃ」
「本を読むくらいいいだろう。寝たきりじゃたまらない」
「いけません」
本を取り上げる大酉に、輝子が眉を顰める。
九年。
大酉が蜃気楼に来てから、いつの間にかそれだけの時間が過ぎていた。
輝子はここ一年ほど前から、急に体を弱くしていた。心配する大酉には、いつもの憎まれ口しか叩かないが、食事も粥のような柔らかいものしか喉を通らず、それさえ小さな茶碗に一杯も食べられないのでは、体力が持たないのは明らかだ。
蜃気楼も最近は、大酉が一人で店を開けることの方が多い。
中井も最近は歳のせいか、店に来られなくなってしまったようだった。山本や宮田は時々顔を覗かせてくれるが、それでも輝子が店先に出なくなってからは、あまり長居をすることもなくなった。
陽一郎からの借金返済という名目での大酉のタダ働きは、四ヵ月ほどして終わりを告げられた。
家賃も払わなくていい、食事も出る毎日では、給料のない毎日にたいした不自由を感じたことはなかった。むしろ突然目の前に突きつけられた給料袋の方に、戸惑いを覚えた。
借金のことはもういいから、これからは金を貯めて新しい人生のことを考えろと輝子は言った。
無駄遣いは許さないと念を押された給料袋の中身は、けして多いものではなかったが、大酉には妙に重く感じた。
二十八歳。新しい人生を踏み出すのには、十分若い。
しかし、何を。
ちらと頭をカメラのことがよぎったが、それはもうない。もう二度と写真は撮らない。撮りたいという気分も起きなかった。
じゃあ、何を。
毎日考えながら働いた。
何も思いつかないまま半年が過ぎ、一年が過ぎた。
そうして大酉は思った。このまま、ここで働いていられたらいいのにと。流されているわけでも、安易な道を選んだわけでもない。
大酉がもしここを出て行ったとき、輝子一人で店をやっていくのは難しいだろう。そのとき、この店が畳まれてしまうのは心が痛んだ。それは、かつてこの店を継ぎたいと言っていた、鈴のことを聞いたからかもしれないが。
そんな思いは口にせず蜃気楼から出て行こうとしない大酉に、輝子は何も言わなかった。
使い道がなく貯まっていた金で、大酉が店の手伝いをしながら調理師の免許を取り始めたときですら、輝子はただ黙っていた。
「さあ、食べてください」
大酉はベッドサイドの机に盆を置き、その傍らの椅子に座って茶碗を差し出した。それを受け取り、渋々といった様子で粥を口に入れた輝子だったが、その眉がピクリと上がる。
「なんだいこれは」
「干し貝柱と鶏でダシをとった中華風にしてみたんですよ。美味いでしょう」
「変わったことをするもんだね」
相変わらずの口調だが、それでもいつもより減った茶碗の中身に満足して、片付けようと椅子を立つ大酉を輝子が呼び止めた。
「ちょっと話がある。お座り」
その真剣な口調に、何かと胸をざわめかせながら、大酉は再び椅子に腰を下ろした。輝子はベッドサイドの机の引き出しを開けて、中から封筒を取り出し大酉に渡した。
「なんですか?」
開けてみて出てきたものに大酉の顔が強張る。
そこに入っていたのは遺言状と書かれた紙と土地の権利書だった。他に輝子の通帳なども入っている。
「あんたに私の財産を譲ることにした」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
簡単に言う輝子に、大酉は椅子から立ち上がり思わず声を大きくした。輝子が煩いとでも言いたそうに目を閉じ、眉間に皺を寄せる。
「いいから私の話をお聞き」
「でも、こんな! 私はこんなものは要りません」
「大酉」
静かに名前を呼ぶ輝子の威圧感は、体が弱くなってからも変わらない。大酉は封筒を手に椅子に座るしかなかった。
「もう九年も経ってしまったんだね。早いもんだ。最初あんたを見たとき、ああ、なんて間抜けな子だろうと思ったよ」
「間抜け……ですか」
「そうさ。ちょっと、その眼鏡お貸し」
「え?」
「ほら」
出された手に大酉は少し迷いながらも、眼鏡を外して渡す。
「やっぱりね」
「何がです」
「ただのガラスだ」
「え、あ、ああ。私は別に目が悪いわけじゃなくて、それは……」
慌てて言葉を探す大酉だったが、そんな大酉を輝子は鼻で笑った。
「まったく、間抜けな子だ」
「はあ」
「この眼鏡はね、もともと陽一郎さんの物なんだよ」
「は?」
頭が真っ白になった。
「まあ、新聞を読むときにだけ掛けていた物だけど。あの日はちょうど陽一郎さんの物を捨てた日でね。残しておいたところで、私が死んでしまったらゴミになるだけだし」
「え、じゃあ……」
「とっさに顔を隠して、しかも陽一郎さんに会いに来たという。なんて馬鹿な子だとね」
それは確かに間抜けだ。
「大体、そんな眼鏡程度で、私があんたの顔を分からないわけがない」
大酉は息を呑んだ。
「分からないわけがないだろう。自分の息子夫婦を殺した容疑が掛かっていた男の顔と名前だ」
目を見開いて輝子の顔を見る大酉を、輝子もじっと見ていた。
やはり輝子は大酉のことを分かっていた。
「そんな……じゃあ、じゃあ、なんでです……なんで……」
震える声で問う。
「捕まった男が犯人じゃないと知ったときの、陽一郎さんの落胆振りといったらなかった。もちろん私もやりきれない気持ちだった。警察はその男は犯人じゃない。だけど、鈴はその男に助けを求めたらしいって言うじゃないか。なんで鈴を助けてくれなかったんだと、せめて誰かに助けを求めてくれても良かったんじゃないかと、捕まらない犯人へよりも、鈴を助けてくれなかったあんたへの怒りばかりが募っていったこともあった」
そうだろう。怨まれても仕方がない。
「そんな私も陽一郎さんまで亡くし、すっかり気落ちしてしまっていた。そんなとき、あんたという子は間抜けな姿で私の前に現れた。いったいどんな子だろうと思ったよ。そうしたら何のことはない。どん臭くて人と触れ合うことのできない、ちっぽけで哀れな人間じゃないか」
輝子は封筒を持つ大酉の手をその上から握る。
「勘違いしないでおくれ。分かるだろう? これは優しさじゃあないんだ。だから放棄してくれても構わない」
優しさではないと言う輝子の手を、大酉はそれでも温かいと思う。
「分かっているさ。あんたが本当は悪い人間じゃないってこと。あんたはあの子達を殺したわけではないってこと。鈴を助けなかったことを後悔してること。なのに私は、あんたの前でわざと鈴の事を話したし、あんたをここに置いた。それがあんたを苦しめると分かっていながら。そして、これがまた、あんたをずっと苦しめることになることも分かっている」
それはまるで真綿で首を絞めるように。
「……いえ」
大酉は封筒を握り締めた。
「受け取らせて頂きます」