第六章・2
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一日を終えた大酉は浴室で着物を脱いだ。着物を自然と着ることができるようになったのには、自分でも驚きだ。
髪を止めていた紐を解き、眼鏡を外して鏡見ると、そこに見慣れた大嫌いな人間がいる。眼鏡のレンズはただのガラスに変えてある。眼鏡を外したところで、たいした違いはないかもしれないが、まだ輝子の前では外せない。
それよりも、自分はいつ輝子に本当のことを言うつもりなのだろうか。
言おう言おうと思ってはいるのだ。なのに言葉が出てこない。言えば、ここを出て行かなければならないのは当然だ。それを嫌だと思っている自分がいる。
相変わらず自分勝手な人間だと、心底嫌気がする。
湯を浴び終えて、風呂を出た大酉が癖っ毛をタオルで拭っていると、ガシャンという何かが壊れる音が耳に飛び込んできた。
慌てて浴室を出てみると、台所で輝子が倒れているのが見える。床ではコップが割れていた。
「テルさん!」
大酉はすぐに戸棚の薬瓶から錠剤を二粒取り出した。輝子を抱き起こすと、水と一緒に口元へ持っていく。
輝子は苦しそうに何度か咳き込んだが、しばらくすると呼吸が落ち着いてきたようで、うっすらと目を開けて大酉を見た。
「……ああ、すまなかったね」
「平気ですか」
「もう平気だよ」
輝子が大酉の前で発作を起こすのは、これで三度目だった。
「本当に平気なんですか。ちゃんと病院に行ってくださいね」
「雇い主に偉そうな口利くんじゃないよ」
「それとこれとは話が別です」
「生意気になったね」
苦い口調で言い、立ち上がろうとする輝子を大酉が止める。
「あ、待ってください。ガラスが散ってるんで危ないですから、向こうまで私が運びます」
言いながら輝子を抱き上げようとする大酉の頭を、輝子が平手ではたいた。
「何言ってるんだい、やめとくれ」
「何って、なんですか。ガラスを踏んだら危ないでしょう」
「大丈夫だよ、これぐらい。だいたいなんだい、その格好は。はしたない」
「はい?」
慌てて浴室から出てきたため、腰にタオルを巻いただけの姿だったことを忘れていた。
眼鏡も置いてきたことに気づいた大酉は、髪を拭うため首からかけていたタオルを焦って頭に被った。いや、隠すべきはもっと他の場所のような気もするが。
「こ、これは仕方ないでしょう! だいたい、あなたがいきなり倒れたりするから!」
「それこそ仕方がないだろう」
「……とにかく恥ずかしがってないで、少し大人しくしててください」
「恥ずかしがってなんかいるもんかい」
キリがない。
大酉は半ば強引に輝子を抱え上げると、自分もガラスを踏まないように気をつけながら、居間のソファまで輝子を運んだ。
酷く軽くて、脆いものを抱えている感覚に少し緊張する。
「明日は、ちゃんと病院へ行ってください。ちょうど店も休みですし」
「明日死んだって、私は全然かまやしないよ」
この年寄りは……。
「もし行かないと言うなら、医者の方に来てもらいます」
「ああ、ああ、分かったよ。まったく煩いね」
「頼みますよ。突然雇い主が居なくなったら、私も困るんですから」
わざとそんな言い方をしてみると、輝子が黙ってしまって大酉はしまったと思った。ただ輝子を心配しているだけなのに、どうしても売り言葉に買い言葉になってしまう。
そもそも、大酉がここに居られるのは、輝子のおかげなのに。
「ほら、店がなくなったら、中井さんや山本さんだって寂しがりますよ」
取り繕うように言った大酉に、輝子は苦笑いのような表情を浮かべる。
「私が死んでこの店がなくなってしまったら、もし鈴が――」
言いかけて輝子は口をつぐんだ。
「いや、今日は少し疲れたみたいだ。お休み。あんたも早く寝るんだよ」
「……はい」
珍しく歯切れ悪く言うと、輝子は寝室へと入っていった。
いったい何を言おうとしたのだろう。
もし……もし鈴が……生きていたら、か?
鈴がもし生きていたらの話なら、店がなくなってしまったらという言葉は何か変な気がするのだが。
考えていた大酉は次の瞬間、派手なくしゃみをして、自分がまだタオル一枚の姿だったのを思い出した。