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第六章・1

第六章


―1―


「大酉」

「はい」


 輝子の声に大酉は作業の手を止めた。その大酉の手元を輝子が覗き込む。

大酉が作っていたのは茶饅頭。黒糖、黒蜜を練りこんだ生地は粘りがあり、扱うのが難しいのだが、


「なかなか上手くなったじゃないか」


 輝子が言った言葉に、大酉は気恥ずかしそうに目を逸らす。

 大酉が蜃気楼で働き始めて、二ヶ月が経とうとしていた。アパートは解約し、今では蜃気楼の二階の一部屋で寝起きしている。

 朝の早い生活にも慣れてきたし、菓子作りの手伝いもそれなりに覚えてきた。自由な時間は一切なかったが、不思議とそれはあまり苦痛ではなかった。


「それじゃあ、私はちょっと出かけてくるから、後は頼んだよ」


 大酉は驚いて、逸らしていた目を輝子に向けた。見れば輝子は着物ではなく、ブラウスにニット、ズボンを穿いた姿でコートを手にしている。

 この二ヶ月の間、病院へ行ったり買い物へ行ったりと、輝子が外出することはもちろんあった。しかしそれは、店が休みのときで、大酉に店を任せて出かけるなどということはなかった。


「あの、でも」

「なんだい。何か問題でもあるのかい。うちの鈴だって、店番くらいは一人でできたよ」


 輝子の口からは相変わらず、こうして鈴の名前が時々出る。これには二ヶ月経ってもなかなか慣れない。


「分かりました。いってらっしゃい」

「昼過ぎには戻るよ」

「はい。気をつけて」


 会話というものにも、だいぶ慣れたと思う。

 輝子が出かけてしばらく経った頃、店のドアベルが鳴って大酉は厨房から店先へと出た。


「やあ、おはよう大酉君」

「いらっしゃい中井さん」


 いつも笑顔の中井に、返す笑顔も自然と出るようになった。


「おや、テルさんは」

「今日はちょっと出かけています」


 いつも同じ席に座る中井に、大酉はおしぼりを出す。


「そうか。それはしっかり店番をしないといけないね」

「ええ。今、お茶をお持ちします」

「ああ。しかし、何やらいい匂いだ。これは茶饅頭じゃないかい」

「はい。ちょうど蒸しあがったところですけど」

「じゃあ、それも頂こうかな二つ」

「かしこまりました」


 蒸しあがったばかりのふっくらと艶のある饅頭と、一緒に持っていくのは香ばしいほうじ茶。


「ごゆっくり」

「大酉君」


 菓子を出して下がろうとした大酉を、中井が呼び止めた。


「はい」

「まあ、少し座らないかね。この時間なら、他に客が来たとしてもいつもの連中じゃないか」

「いや、でも」

「テルさんには黙っているから平気だよ」

「……それじゃあ」


 大酉は躊躇いながら中井の前に座った。その大酉に中井は饅頭の一つを差し出す。どうやら初めから、一つは大酉にやるつもりで注文したようだ。


「いえ、さすがにそれは」

「いいからいいから。鈴君が店番をしてるときも、私はこうやってよく、お菓子をご馳走してあげてたんだよ」


 笑いながら言った中井に、大酉は饅頭を受け取った。中井は嬉しそうに自分の饅頭を一口大に千切り、口に入れる。


「あの、中井さん」

「何かね」

「その……鈴君って、この店によく来てたんですか」

「ああ、君は鈴君のことをよく知らないのか」


 中井は顎の鬚を撫でた。


「そうだね、鈴君が十歳くらいのときからかな。日曜には朝からよく来ていたし、学校が終わってからもよく顔を出していたよ。なんせ鈴君の夢はこの店を継ぐことだったからねぇ」

「え」

「陽一郎さんの息子さんは大学の先生さんだったし、その長男の光君も出来のいい子だったから、もともと店は畳む気でいたらしい。しかし鈴君が『じゃあ、この店は俺のね』って言い出したそうでね」

「鈴君が……ですか」

「テルさんは大反対だったよ。内心は嬉しいくせに、あの子は頭がいいんだから、こんな陽一郎さんが趣味で始めたような店の後なんか継がせられるかいってね。しかし、店主の陽一郎さんがそれはもう乗り気でね。休みの日には鈴君を着物姿で店に出したりしていたよ。うん、あれは可愛かったなぁ。陽一郎さんは鈴君に菓子作りも教え始めてね。これがまた、飲み込みの早い子だったから。鈴君の作ったあれはなんだったかな……そう、黒胡麻プリンと言っていたな。あれは実に美味かった」


 鈴の思い出を話す中井は実に楽しそうだ。


「私に『長生きしたら、俺がもっと美味いもの食べさせてあげるよ』なんて言っていたこともあった。分からないものだね。私のような年寄りがまだ生きていて、あんないい子が――」


 ふいに声を詰まらせ、中井は茶を飲む。


「いや、すまないね。つい。こうして思い出話をしてしまうと、やはりあの子がいないのだと思い知らされてしまってね」


 中井たち常連客にとってこの店と鈴は、切っても切れない存在のようだ。だから自然と鈴のことを口にするし、まるでまだ鈴がいるかのように話してしまうのだろう。


「いえ、こちらこそ、すみません。……本当に……すみませんでした」

「大酉君、お茶をもう一杯もらえるかな」

「はい」


 中井の前にある湯呑みを持ち、大酉は厨房へと下がる。

 苦しい。

 あの日、自分のつまらない欲を優先し、見殺しにした助けられたかもしれない命は、大酉の想像よりもはるかに輝かしく未来に溢れた命だった。


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