第五章・3
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夜、七時を回った頃、看板を仕舞うように言われて大酉は外へ出た。外はもう真っ暗で、一日というのは、こんなにあっという間に終わるものなのだと驚く。
この日、店は大酉が思っていた以上に忙しかった。
午前中は、それこそ中井や山本のような、茶飲み友達と思われる年寄りが来るだけだったのだが、昼を過ぎた辺りからは一般客もやって来た。中には、菓子だけを包んでくれという持ち帰りの客もいたりして、大酉は慣れない人を相手にする仕事に、すっかり疲れきっていた。
看板を仕舞いドアの札を裏返すと、お茶のいい香りがしてきて振り返る。
「そこにお座んなさい」
輝子がお菓子とお茶のセットを一つ持ってきて、テーブルに置いた。
「お食べ」
キョトンとしている大酉に、輝子は言った。
「でも」
「売れ残りだ。あんたが作った大福だよ。片しておくれ」
「……はい」
見た目のいまいちなそれは、大酉が包んだものらしい。それならばと遠慮なく一口頬張る。
厚みのある餅はきめ細かく、弾力があるが歯切れよく食べやすい。素朴なえんどう豆の塩気が、上品な甘みの餡を引き立てている。あっという間に一個食べ終え、少し物足りなさを感じる。もう一つ、二つくらい食べられるのではないかと思えるほどで、一言で言えば――
「どうだい」
輝子の声に大酉は皿から顔を上げた。
「美味かったです……」
輝子は大酉の返事に満足そうに、また当然というような顔で立ち上がった。
「疲れたときには甘いもんが一番さ」
そう言って二階へと向かう輝子。
売れ残りだなどと言っていたが、もしかしたら輝子なりの労いだったかもしれない。輝子の入れてくれた茶に、大酉は肩の力が抜けるような気持ちがしてソファに背中を預けた。すると――
「ちゃんとテーブルを拭いて、床のモップ掛けも忘れるんじゃないよ!」
階段の方から輝子の鋭い声が響いてきて、慌てて大酉は立ち上がった。
◆◆◆◆◆◆
店の掃除を終え二階へと戻ると、輝子が寝室の隣にある部屋から出てくるところだった。
「あ、店仕舞い終わりました」
「そうかい。ご苦労様」
「何……してたんですか」
「ちょっと片付けをね」
首を捻って、輝子の後ろにあるその部屋を覗きこんだ大酉に、輝子は今日洗濯した大酉の服を手渡しながら言う。
「その部屋、好きに使うといい」
「え」
「とは言っても、必要なものもあるだろう。今日は一度家にお帰り」
「ちょっと、待ってください」
「明日も今日と同じに店を開けるからね。遅刻は許さないよ」
相変わらず一方的に話を切り上げると、輝子は浴室の方へと行ってしまった。
住み込みで働けということか。もちろん、今朝のように朝の早い仕事なら、住み込みの方が都合がいいとは思うが。それに、アパートの家賃を払うのも苦しい大酉にとっては、願ってもない話ではある。
それでも、輝子と一つ屋根の下で過ごすことになるのは気が重い。迷いながら大酉は着物を着替えると、玄関を出て蜃気楼を後にした。
一日空けていただけの部屋に返って来た大酉は、ドアを開けた瞬間に吸った、自分の部屋のカビ臭い空気に思わず顔を顰めた。
我ながら、ひどい部屋だ。蜃気楼で一日過ごして、住み慣れたはずの我が家の環境の悪さを思い知らされる。
湿気たベッドに寝転んで考えた。
このまま明日、大酉が蜃気楼へと顔を出さなければ、輝子はどう思うだろう。
そうだ。このまま、もう二度と蜃気楼に近づくのはやめよう。
あそこにいるのは息苦しい。あれをしろ、これをしろと言いつけられるのも、出される美味い食事も、店の客から向けられる笑顔も、耳に入る鈴の名前も、大酉の喉をゆるゆると締め付けるようだ。
そのまま眠りに落ちようとした大酉はふと思い出した。
輝子は大丈夫だろうか。また急に発作など起こしていないだろうか。あの家には輝子しかいないのだ。
昼間、店を開ければ客は来る。しかし店を閉めてしまえば、あの老婦は一人きり。何かあっても気づく者はいないだろう。
大酉はむくりと立ち上がると、クローゼットの奥からドラムバッグを取り出し、中にまともな服を詰めた。わずかな残額が記載された通帳と判子、他に何が必要かと考えるが思いつかない。
最後にぐるりと部屋を見回すと、処分せずに残したカメラが目に入った。それをバッグの中に押し込むように入れると、大酉はアパートを出て行った。