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第五章・2

―2―


 朝食を食べ終えると、輝子は店へと下りて行った。

 その輝子の分の食器も一緒に大酉は食器を片付け、言いつけられた通りに洗濯を始める。とは言っても、洗濯機の中に入っているのは、輝子の下着と先程大酉が使ったタオルだけ。洗濯機脇のカゴには大酉の服しか入っていない。一緒に洗ってもいいものか迷ったが、面倒なので大酉は自分の服も洗濯機に放り込むと、洗剤を入れてスイッチを押した。

 後は掃除。見る限り、掃除をしなければならないところなどないように思えるほど片付いている。しかし、御丁寧に箒と雑巾が居間に用意されていた。

 掃除機はないのか……。

 顔が渋るのを自覚しながら、大酉はしぶしぶ箒を手に取った。



 外は清々しいくらいに晴れ渡っていた。

 昨夜は暗くてよく見えなかった屋上で、大酉は鼻の上にずり落ち気味に掛けていた眼鏡を外すと、腰帯に引っかけ空を見る。

 抜けるような青い空がどこまでも高く広がっている。乾いた空気を時折、冷たい風が静かにかき乱し、頬を撫でるのが心地良い。

 これならば、洗濯物なんて昼を過ぎる頃には乾くのではないだろうか。

 大酉は濡れたバスタオルを物干竿に引っ掛けた。朝からこんなに体を動かしたのは久しぶりだ。もともと不規則かつ、夜の方が仕事の多かった大酉には、朝の太陽の光はひどく目に痛かった。

 少ない洗濯物を干すのに、たらたらとあまり時間を掛けてもいられないだろう。

 大酉はかごの中から次の洗濯物を手に取った。



 言いつけられた仕事をすべて終え、大酉は輝子の姿を探した。

 店の奥の厨房から物音が聞えてきて、大酉はそちらへと向かう。


「終わったけど……」


 顔を覗かせた大酉に、割烹着を着た輝子が作業の手を止め大酉を睨む。


「“終わりました”だろう。それが雇い主に対する口の利き方かい」

「す、すいません。終わりました」

「ぼそぼそと喋るんじゃないよ。声はもっと腹から出しな。うちは客商売なんだからね。ほら、また背が丸まってる!」


 輝子の勢いにうろたえながら、大酉は背筋を伸ばす。


「ちょっとそこにお座り」

「は、はい」


 厨房の端にあった椅子に腰を掛けた大酉は、近づいてくる輝子に身を固くする。輝子は短い紐を口に咥えると、大酉の背後に立った。


「なんです……あ、いっててててっ」


 髪を引っ張られ、喉を反らしながら大酉は言った。


「じっとしておいで。うちは食べ物を扱うんだから。だらしなく髪を垂らしてたんじゃ不潔だろう。……ずいぶん癖っ毛だね」

「分かった。分かりました! 自分でやりますから。痛い! 禿げる!」

「そうかい。じゃあ、ちゃんとまとめるんだよ」


 髪留めの紐を大酉に渡すと、輝子はまた手を洗い、調理台の前に立つ。

 頭皮ごと持っていかれるかと思った……。

 大酉はトイレへと行くと、鏡の前で少しだけ長い髪を後ろで小さくまとめた。着物姿で丸眼鏡の髪を結んだ男。鏡に映った自分はまるで別の人間のようだ。

 このまま別人になってしまえたら、どんなにいいだろう。


「大酉!」

「はいっ!」


 鏡の前でぼんやりとしていると、輝子の鋭い声がしてきて、大酉は急いで厨房に戻った。




◆◆◆◆◆◆


「……不器用な子だね」


 厨房で白い大福の生地に餡を包む大酉の手を見て、輝子が感心するように言った。


「こんなのやったことないし、仕方ないでしょう」

「口答えするんじゃないよ」

「……すいません」


 作っているのは豆大福だ。食べたことがまったくないわけではないが、大酉にとってそうそう食べる機会なんてないものだ。もちろん作ったことなんてあるわけがない。


「孫の鈴はもっと上手にやってみせたよ」


 何気なく言われた言葉に大酉の手が止まる。


「ほら、ここはもういいから。看板を出してきておくれ」

「……はい」


 胸がむかむかとするこの気持ちは、罪悪感だろうか。輝子は自分があの日、その孫を見殺しにした男だと知ったら、どうするのだろう。

 大酉がドアに下げられた『準備中』の札を『営業中』にひっくり返し、日が暮れれば明かりのつく電飾の看板を店の外に出していると、誰かが店の前で足を止めた。


「ほお、今日からまた営業再開かい」


 杖をついた小柄な老人が、杖を持っているのとは逆の手で顎の白い鬚を擦りながら店を見ていた。


「はあ。そうらしいです」

「そうか。それはいい。ちょっとお邪魔していくかな」


 老人は大酉の脇を抜け、店のドアを押した。カラランと響くドアベルの音に輝子が厨房から顔を出す。


「あら、中井さん! お久しぶり。その節は御世話になって」

「いやいや。今日からまたやってるということで、早速テルさんのお茶が飲みたくなってしまった。いいかね」

「ええ。もちろん」


 どうやら老人は中井という名で、この店の常連のようだ。笑顔で中井と話していた輝子だったが、ふと大酉を見て、また眉を吊り上げる。


「お客様がお見えになったら、店の中にご案内くらいしなさい」


 叱る声が少し控えめなのは客の前だからだろうか。


「はっは。まあまあテルさん。このお若いのは、今日が仕事始めなのだろう。そんなに怒鳴りつけては可哀想だ」

「中井さんはいつも、そうやって若い子に甘いんですから。うちの鈴はそれぐらい、言われなくたってできてましたよ」


 ああ、また鈴の名だ。


「やあ、またテルさんの『うちの鈴』だ」


 ドアベルの音と共に、そんなことを言いながら入って来た者がいる。


「いらっしゃい、山本さん」

「久しぶり、テルさん。私にもお茶を。それから今日の菓子は何かね」


 中井ほど歳ではないが、恰幅のいいその初老の男もまた、店の馴染み客らしい。


「今日は豆大福ですよ」

「そりゃあいい。一つもらおう」


 それを聞いて輝子が厨房へと姿を消すと、山本と呼ばれた男は大酉の背をポンポンと叩いて、中井の座っていたテーブル席に、自然な様子で相席をする。


「ありゃあ、テルさんの口癖だからね。気にしないこったよ、兄ちゃん。なんせ『うちの鈴』君には誰も敵わないんだから」


 山本が言った言葉に、中井も笑った。この客たちも鈴の事を知っているのか。


「その鈴っていう子は……」


 大酉が訊こうとしたときだ。


「大酉! 」


 輝子の呼ぶ声に慌てて厨房へと向かう。


「無駄口叩いてないで、お客様が席に着いたらまず、おしぼりを運びなさい。ほら、お茶も入ったから」

「はい……」


 竹で編まれた籠に置かれたおしぼりと、輝子が入れた茶を盆に載せる。なんとも心落ち着く香りの豊かな緑茶だ。


「えっと……お待たせしました」

「はい、どうも」


 慣れない大酉の接客態度にも、中井と山本はにこにこと笑っている。そのとき、またドアベルが鳴った。


「テルさん。今日から営業再開?」


 突然、そんなことを言って入ってきたのは、少し太った中年の女性だった。そして大酉を見るなり、目を丸くする。


「あらぁ! 若い男の子がいるじゃない。ちょっとテルさん! どうしたの、この子」

「今日から、うちで雇うことにしたんですよ」


 輝子がカウンター席に座った女性に、おしぼりを持ってきながら答える。


「まあ。それは嬉しいねぇ。ここはお茶もお菓子も美味しいけど、じいさん連中が多いから」

「悪かったな、じいさんで」


 山本が苦笑する。


「ほらほら、よく見たら、結構いい男じゃないのさ。お兄さん、お名前は」

「あ……俺は大酉と……言います」

「大酉?」


 首を傾げる女性に大酉は少し息を詰めるが、


「変わった名前ね」


 女性があっさりとそう言ってホッとする。しかし輝子が自分を睨んでいるのに気がついた。


「“俺”だなんて。ちゃんと“私”と言いなさい。いい年した大人がみっともない」


 そこか。


「あら、テルさん。鈴君だって“俺”って言ってたわよね」

「まったく、お兄ちゃんの光だって僕って言ってたのに、なんでか、あの子はあれだけは直らなくてね」

「そこが可愛いんじゃない」

「まったく、宮田さんは鈴君に甘いな」

「そういう中井さんだって」

 

 宮田というらしい女性は、笑いながら言った。

 店の客が皆、鈴の話をしている。ここにいる客は鈴のことをよく知っているようだ。そして、まるでまだ鈴が生きているかのように鈴のことを口にする。

 大酉がふと見た輝子は、そんな客たちを見ながら静かに微笑んでいた。


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