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第五章・1

第五章


―1―


「大酉圭介!」


 突然大きな声で呼ばれた自分の名前に、大酉の心臓は跳ね上がった。次に床に転がり落ちて、打ち付けた肘に顔を顰め呻く。


「まったく、いつまで寝てる気だい」


 見れば、輝子が腕を組みながら自分を見下ろしている。ちゃんと着物に着替え、髪もしっかりと結いあげられている。今日の着物は昨日とは違って、萌葱色の優しい色合いだった。

 大酉は落ちた眼鏡を慌てて掛け直し立ち上がった。どうやら昨日ソファに座ったまま、いつの間にか眠ってしまったらしい。

 そういえば


「……俺の名前」


 輝子は今、大酉の名前を口にした。


「やれやれ。本当に、まともな生活をしてるとは思えないね」


 そんなことを言う輝子の手にしている物は――


「俺の財布!」

「そんな声出さなくても、取りゃしないよ。小銭しか入ってないじゃないか」


 投げ返された二つ折りの財布には、確かに小銭しか入っていないが、免許証も一緒に入れてある。


「二十八にもなってそんなんじゃ、親御さんもさぞかし苦労されてるだろうよ」

「親にはとっくの昔に勘当されてるから……」

「ふうん」


 輝子は目を細め大酉を見ると、寝室の隣の部屋へと入って行った。

 どういうことだろう。

 顔だけではともかく、大酉の名前まで知って、何も言ってこないなんて。

 まさかとは思うが輝子は本当に自分のことを知らないのか。

 考えていた大酉の前に、輝子が戻って来た。そしてぐいと何かを押し付けられる。


「これは」

「陽一郎さんが若い頃に着ていたものだ。さっさとお着替え」

「え」


 どういう事なのかさっぱり分からない。


「陽一郎さんが勝手にした事だからと思ったけど、気が変わった。陽一郎さんに借りた分、あんたには身体で返してもらう事にしたよ」


 やはり、相変わらず輝子は大酉を、陽一郎から金を借りた男だと思っているらしい。


「今日から店を再開する予定でね。ちょうど男手が欲しかったところだったんだよ」

「いや、でも」

「なんだい。他にあてがあるのかい。その成りじゃ、どうせろくに仕事もしちゃいないんだろ」


 それは図星だが。


「着替えの前にまず、湯でも浴びておいで。まったく小汚い。そんなじゃ、店に出せないじゃないか」


 昨日、突然苦しみだしたとは思えないほど元気な老婦は、ぐいぐいと大酉を浴室へと追いやった。


「隅々まで、ちゃんと綺麗になるまで出てくるんじゃないよ」


 バタンと戸を閉められ一人になると、改めて輝子の勢いに呆気に取られる。

 輝子は大きな勘違いをしている。大酉は陽一郎に金を借りてなどいない。しかし、自分に今仕事がないのは事実だし、この家にはもう輝子一人しかいない。人手が必要というなら、自分は輝子の言う通りにするべきなのかもしれない。

 それで多少なりとも、輝子の役に立てるなら。

 もはや一人ぼっちになってしまった輝子に、あの日、助かるかもしれなかった彼女の孫を見殺しにした罪を少しでも償えるのなら。


 大酉は服を脱ぐと、風呂場へと入った。

 また輝子に何か言われないようにと、これでもかというくらいに身体の隅々まで石けんを泡立てたタオルで擦り、癖のある髪は二度洗った。

 置かれていた剃刀をざらついた顎に当てる。熱いシャワーを浴びて風呂場を出た大酉を次に悩ませたのは、輝子から着替えろと渡された服だった。


「着れるわけないだろ……」


 陽一郎が若い頃着ていたというそれは、和服だったのだ。着方などまるで分からない。

 とりあえず長襦袢と長着の袖に腕を通し、帯で適当に縛り付け浴室を出た大酉を出迎えたのは、輝子の呆れたような視線と盛大な溜息だった。


「みっともないね。最近の若い子は着物一つちゃんと着れないのかい」


 言うなり輝子は大酉の帯に手を掛けた。


「ちょ、ちょっと」

「じっとしておいで。合わせさえ間違ってるじゃないか。うちの孫は、これぐらい一人で着れたよ」


 また孫と比べるようなことを言いながら、怒る輝子の言葉に仕方なく抵抗をやめる。


「ほら、もっとしゃんと立ちな。……なんだい。意外と背が高いじゃないか」


 丸めていた背を伸ばした大酉に言いながら、慣れた手つきで大酉に着物を着せて行く。

 人に服を着せられるなんて、まるで小さな子供にでもなったようで、大酉は落ち着かない気持ちにさせられる。

 輝子が黙ってしまうと、聞こえてくるのはシュッシュッという木綿の生地の刷れる音だけ。

 古い物のはずのその着物は、パリッと糊が効いていて折り目も正しく、きちんと着せられると身が引き締まるような気がした。さらりとした肌触りも心地良い。

 最後に腰紐の端を捻り絡げ止めると、輝子はパアンと大酉の尻を叩いた。


「いっ!」


 思わずよろけた大酉に、たすきと黒い前掛けが投げ渡される。


「さあ、まずは店の掃除だよ。テーブルを拭いて、それから床にモップを掛けて。布巾は厨房の奥。モップと箒は裏口を出た所。最後に忘れず店の外もちゃんと掃くんだよ!」


 まくしたてられるように言われ、前掛けを手に大酉は一階へと駆け下りて行った。

 ふと店の柱に掛けられた古い時計を見れば、まだ針は六時を少し過ぎたところ。大酉は一つ大きく息をつくと、前掛けを腰に結びつけた。


 小さな店だからと鷹を括っていた大酉だったが、全てを終えたのは、たっぷり一時間以上後のことだった。

 店の外を掃き終わり中へと戻るとそこには、輝子が腕を組んで立っていた。


「あ、今終わったとこで……」

「まったく、ちんたらした仕事だね。そんなじゃ日が暮れちまうよ」


 そして輝子は大酉が拭いたテーブル、モップを掛けた床をチラリと見て呟く。


「五十五点」


 ……厳しい。


「明日からはもっとテキパキ頼むよ。さあ、手を洗っておいで」


 言いながら輝子は二階へと戻って行った。言われた通りに手を洗って来た大酉の前に用意されていたのは、出来たての和風の朝食。


「何ぼさっと突っ立ってるんだい。早くお座り」

「いや、でも……」

「朝はしっかり食べないと、頭がしっかり働かないんだよ。そんなことも知らないのかね」


 また怒られた。


「あんたには目一杯働いてもらわなきゃならないんだから。ほら、早く食べなさい。洗い物は頼んだよ。それが終わったら、ここの掃除と洗濯もあるからね」


 先に席についた輝子が手を合わせるのを見て、大酉も席につく。


「じゃあ……いただきます」


 言った言葉に返事は無く、味噌汁を口元へ運ぶ輝子に習うように大酉は自分も味噌汁の椀を手にした。

 ちゃんとダシをとった味噌汁のいい香り。具はわかめと麩のシンプルな物。出来立ての湯気を立てるそれに、ニ、三度息を吹きかけすすると、じんわりと腹が熱くなる。

 かつて自分にも、こういった母の味というものがあったということすら記憶に薄いが、それはひどく懐かしさを感じさせる味だった。



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