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第四章・3

―3―


「それでいったい、あの人はいくら貸したのかね」


 輝子は茶を入れると、大酉の前に腰を下ろした。

 居間の応接セットも昭和モダンな革張りのソファに曲線の美しい足のテーブルと、この部屋によく合っている。そのテーブルに置かれた香ばしい香りに、大酉の気持ちがほんの少し安らぐ。


「いや、その、俺は……」

「まあ、その恰好じゃ、出世払いに来たって訳じゃあなさそうだけどね」


 目の前にしゃんと座る老婦よりも老人のように、背中を丸める大酉の姿はどう見ても、金を返しに来たというよりは借りに来た人間のように見える。


「陽一郎さんが勝手にしたことだから、別に私は構わないけどね。本人ももういないんじゃ、仕方がない」

「いや、俺は……」


 輝子はすっかり大酉を、陽一郎に借金した男と決め付けてしまっているようだった。どうやら陽一郎にはそういうことがよくあったと思われる。

 輝子は自分の顔を知らないのだろうか。息子夫婦一家を殺した容疑のかかっていた男だ。罪が確定する前とはいえ、新聞にも雑誌にも顔写真は載ったはず。

 確かに、この二年でかなり体重が減り、頬もだいぶ扱けてはいるが……。この黒縁眼鏡のせいもあるのだろうか。


「とにかく、今日はちょっと忙しいんだよ。もう日も暮れたしね。悪いけどまた出直しておくれ」

「…………それじゃあ……」


 今、ここで帰ったら、もう二度とここへ足を運ぶ気力など湧かない気がする。しかし、目の前の老婦の静かな威圧感に、大酉はのろのろと立ち上がった。

 一階の店へと下りるため、先ほど上がってきた階段へと向かう。すると、ガチャンと瀬戸物がぶつかり合うような音がして、大酉は後ろを振り返った。見るとテーブルの盆の上、先程大酉に出された湯呑みがひっくり返っている。

 そして、それを片付けようとしていたであろう輝子が、テーブルの脇に膝をついて、苦しそうに胸を押さえていた。

 大酉は戸惑いながら輝子の傍へと戻った。


「ど、どうしたんですか」

「薬……」

「薬? どこに」

「台所の……戸棚の左側に」


 息苦しそうに言う輝子に、大酉は台所の戸棚を探す。


「これ?」


 見つけた小さな瓶に入れられた錠剤を見せると、輝子は手を差し出した。寄越せということだろうか。

 大酉は瓶を開け、中身を手の平に出す。


「いくつ」


 訊いた言葉に指が二本立てられる。輝子に二粒の錠剤を渡すと、


「水くらい持って来れないのかい。気の利かない子だね」


 息苦しそうな声で輝子が言った。

 そんなことを言われても……。

 大酉は思いながらもまた台所へと急ぎ、コップに水を入れて輝子に差し出した。輝子は薬を口に含むと、大酉の手からコップを取り水を飲み干した。


「大丈夫……ですか」

「この歳だ。どっかしら悪くはしてるもんだよ」


 心配する声を掛けるが、そんな風に素っ気なく返される。少しよろめきながら立ち上がった輝子に、大酉は手を貸した。


「悪いけどね、寝室まで連れて行っておくれ」

「病院とか行ったほうが……」

「そんなとこいって何になるさね。出来るなら早いとこ、お迎えが来てほしいくらいさ」


 輝子の口調は本気なのか冗談なのか、よく分からない。

 輝子の手を引きながら奥の部屋へと入ると、そこはこじんまりとした寝室だった。ベッドが二つ。片方は陽一郎の物だったのだろう。その一つに輝子は座り、着物の帯を緩める。


「あの……」


 このまま帰ってもいいのだろうか。

 この家には今、輝子一人。また今みたいな事があったらどうするのか。

 帰るタイミングを損ねて、大酉がまごついているとベッドに座ったまま輝子が言った。


「ああ、そうだ。ちょっとあんた。ついでだ。屋上に干してある洗濯物を取り込んで来てくれないか」

「は?」

「玄関を出て階段を上がって。三階は人に貸してるからね。その上が屋上。ほら、ちんたらしてないで早くおし。日はとっくに暮れてるんだよ!」


 強い語尾に、大酉は慌てて部屋を出た。

 ついでに洗濯物を取り込め? いったい何のついでだ。

 そんなことを思った大酉だったが、輝子にとって今、自分は陽一郎に借金をしている人間。それくらいはするべきなのだろう。


 玄関を出るとコンクリ造りの廊下。床がタイル張りなのが珍しい。黄ばんだ蛍光灯の光が暗いそこを静かに照らしていた。一段が高い階段を三階へ上がると、すぐ近くにドアがある。何かの事務所のようだが、磨りガラスのはめ込まれたドアに書かれた文字は、掠れていてよく読めない。明かりがもれているから、まだ中に誰かいるのだろう。


挿絵(By みてみん)


 さらに階段を上に上がると、鉄のドアが見えた。少し重たいドアを押すと冷たい外の風が吹き込む。一気に開けたドアの向こうにあった空間は、大酉の想像よりもずいぶん広かった。

 すっかり暗くなった空の下、住宅街の明かりがちらほらと眼下に瞬いている。

 物干台は屋上の中央付近にあり、タオルやシーツが風にはためいていた。当たり前かもしれないが、輝子の物と思われる下着もある。

 なんで俺がこんなことを。

 思いながら大酉は手早く洗濯物を手に集めた。

 大きなバスタオルを二枚物干から引っ張ると、だいぶ腕がいっぱいになる。ふと見れば、ドアの横には木製のベンチがあり、スチールワイヤーで出来たカゴが置かれているのに気がついた。

 いつもこれを使っているのだろう。

 カゴにバスタオルを突っ込むと、残りの洗濯物もどんどん放り込む。全てを取り込み終わると小さくはないカゴは、洗濯物でいっぱいになっていた。

 それを抱えて先程の階段を下りる。大酉にとってはたいした事のないことではあるが、これは年寄りには重労働なのではないかと感じる。


「取り込んできたけど……これ、どこに」


 カゴを持ったまま、輝子の部屋に戻ると、輝子は寝間着に着替え上半身を起こした状態でベッドに入っていた。輝子は部屋に入って来た大酉に顔を顰めた。


「なんだい。人の部屋に入るときはノックぐらいするもんだよ。それに、あぁ、あぁ。もう。そんなにぐしゃぐしゃに押し込んで。しわくちゃになっちまうじゃないか」


 せっかく取り込んできたのに、言われるのは文句ばかり。


「まったく。中学生のうちの孫でさえ、洗濯物を畳むくらいちゃんとできたっていうのに」


 輝子の言った言葉に、大酉は腹の辺りがちくりと痛むのを感じた。嫌味の込められた口調と言葉のせいではない。中学生の孫というのが鈴のことだからだろう。.

 仕方なく大酉は慣れない手つきで洗濯物を畳み始めた。

 自分は洗濯物なんて、干したらそのまま壁にぶら下げて、使うときもそこから取っていたので、ちゃんと畳むなどということはあまりしなかった。


「それが終わったら、さっき開けた店のドアを閉めて来ておくれ。ああ、そういえば庭に猫が入ったって言ってたね。それも片しておいてもらおうか」

「ちょっ……」


 さすがに抗議の声をあげようとした大酉だったが、輝子はさっさと布団を被り大酉に背を向けてしまった。

 何かがおかしい。こんなはずではなかったのに。

 しかし、確かに店のドアを開けっ放しにしておく訳にもいかないだろう。

 少し苛つきながらも、なんとか洗濯物を畳み終え、大酉は一階の店へと下りて、先程、輝子と入った店のドアの鍵を掛けた。

 あとは植木鉢。なんで自分がそこまでしなければならないのかとも思う。それでも大酉は店の奥の座敷部屋に上がった。テーブルが一つあるだけの六畳ほどの和室。その奥、障子の向こう側に、さっき壁に手を掛け覗き見た裏庭があった。

 猫が引っ掛けたと思われる植木鉢は割れて、中の土がこぼれているのが見える。溜息をつきながら、縁側の下にあったサンダルを履いて庭に出た。

 片付けろと言われても……。

 どこかに箒でもあるのだろうか。探してみたが見当たらない。大酉はしゃがみ込むと手で植木鉢の破片を集め、一つにまとめておいた。こぼれた土も手でかき集め、空いていた別の植木鉢に入れておく。

 とりあえずこの程度でいいだろう。

 汚れた手を店のトイレの洗面台を借りて洗う。

 輝子の部屋に戻りドアを開けようとして、注意されたことを思い出しノックをする。すると、今度は輝子の返事がない。


「あの――」


 少しためらいながら、大酉はドアをそっと開けた。


「片付け終わったんだけど……」


 声を掛けるが、やはり輝子の声は返ってこない。見ると、輝子は静かな寝息を立てていた。そんな輝子が少し腹立たしかったが、これで帰れると大酉は輝子の部屋を出ようとした。

 そして気づく。

 待て。自分はどこから帰ればいいのだろう。

 一階の店のドアはもう閉めてしまった。

 また開ける事はできるが、大酉が出た後に今度は閉めることができない。そしてそれは、ここの玄関でも同じ事。


「もしもし、ちょっと……起きてくれ」


 しかし輝子はすっかり眠り込んでしまっている様子。

 なんて不用心なんだ。もういい。どうせ一晩だけのこと。このまま帰ってしまえばいいんだ。

 輝子の部屋を出た大酉は、ふと居間の仏壇に目をやった。

 近くに寄り、先ほど見た家族写真を改めて見る。羨ましくなるくらい仲の良さそうな家族。この家族が、すでにこの世にはいないとは。中でも鈴の笑顔には息苦しさを覚えた。

 背の高い兄に肩を組まれながら、カメラにピースサインを向けている子供っぽい笑顔。

 あの日、この笑顔が苦痛と絶望に歪んでいた。この手が大酉のコートを掴んでいたのだ。


 大酉は玄関に向かうと鍵を閉めた。

 今夜一晩だけ、ここにいよう。

 明日の朝一番に帰ればいい。

 どうせ、自分の帰りを待っている者など誰もいやしないのだから。


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