第四章・2
―2―
ある日、大酉はバスに乗ってある場所を目指した。
夕方とはいえ、日のある時間に外に出るのは、久しぶり――釈放されてからすでに、また一年が経つほどだった。
マスコミは他の事件へと目を移し、世間ももう大酉の事を忘れかけていた。
それでも、周囲の目が自分を見ているような気がして、大酉は小さくはない体を丸めるようにしてずっと足元ばかりを見つめていた。自分の視界には、くたびれたスニーカーが踏みしめる地面ばかり。
最後に空を見上げたのが、いつだったかなんてことはもう忘れた。
目的のバス停で降りた大酉は、ジーンズのポケットからしわくちゃのメモを取り出した。そこに書いてある住所へと歩き出す。
ずっと来ようと思っていた。
しかし、どうしても足を向ける事ができなかったその場所。
死んだ朝日奈 陽介の両親である、朝日奈 陽一郎の家だ。つまり、朝日奈 鈴の祖父に当たる人物である。
調べてみて陽介の妻、明子の両親はすでにずいぶん前に亡くなっていることが分かった。陽介にも明子にも兄弟はいない。唯一残った朝日奈家の身内だった。
「蜃気楼……ここか」
その変わった名前の店は、和風の喫茶店らしい。雑誌にも載るほどの店だったらしいが、今、大酉の目の前にある店はずいぶんとひっそりしている。
目の前は開けた空き地となっていて、大きな通りへと突っ切って行くことが出来る。
昭和初期の頃のようなレトロモダンな佇まいで、もしカメラを手にしていたら、一枚撮りたくなるような情緒ある雰囲気の良い店だった。
大酉は店のドアの前に立った。そこには準備中の札が掛かっている。休みなのだろうか。
ドアに顔を近づけ覗き込むが、中は薄暗くてよく見えない。
仕方がない。出直そう。
少しがっかりし、また少しホッとしながら、大酉は店の前から離れた。
店をぐるりと回り込む道を歩いていると、壁の向こう側からガチャンという何かが壊れる音がした。ハッとした大酉は、そちらへ目をやる。
誰か居るのか。
どうやら庭となっている様子の壁の向こう。
大酉は意を決し、丁度ゴミ捨て場となっているその壁際に、他のゴミと共に捨てられていた木箱に乗り、壁に手を掛けた。
これぐらいのことは、カメラマンだった頃には何度か経験がある。
顔を壁の上に出し向こう側を見ると、綺麗に剪定された庭と縁側が見えた。そして、割れた植木鉢と、逃げ出そうとしている猫がこちらを振り向いている姿。
なんだ……猫か。
そう思ったときだ。
「こらぁっ! そこで何しとるか!」
背後で鋭い声がして、驚いた大酉は壁に掛けていた手を放してしまった。
「うわっ」
バランスを崩し、そのまま置かれていたゴミの中に背中から落ちる。
「いっつつ……」
「誰だね、いったい。人の家を覗き込んで。事によっちゃ警察を呼ぶよ!」
ゴミに埋もれている大酉の元へ、声は近づいて来る。
慌てた大酉の目に、ゴミの中から黒縁眼鏡が落ちて転がったのが見えた。
「ま、待ってください。怪しいものじゃないんです」
大酉はとっさに、その眼鏡を掛けてゴミの中から顔を上げた。
大酉は目はいい方だ。度がキツめのその眼鏡に頭が一瞬くらりとする。
この後に及んで顔を隠したいと思うなんて、なんて臆病なのだろうか。
「本当に悪い奴だって、最初は皆そう言うものさ」
そこに居たのは、黒っぽい地味な着物姿の老婦だった。
しかし、背筋はピンとしているし、髪も綺麗にまとめられている。大酉を怒鳴りつけた声は若々しくハリがあって、どこか上品な雰囲気をまとった老婦だった。
「俺はただ、この家の……あ、朝日奈陽一郎さんに会いに来ただけです」
「陽一郎さんに?」
「そうしたら中から何か壊れる音がしたから……」
すると老婦は目を細めて庭の方へ目をやった。
「ああ、またあの猫だね」
どうやら事情は分かってもらえたらしい。
「それで、あんたは陽一郎さんに何の用なんだい」
「そ、それは……」
口ごもる大酉に老婦はふふんと鼻を鳴らし、呆れたように大酉を見た。
「まあ、どうせあの人のことだ。またホイホイ金でも貸してたんだろう」
何か勘違いをされたようだ。確かに今の大酉の恰好は見窄らしく、いかにも金に困っているように見えただろう。まあ実際、そうなのだが。
「あの、あなたは陽一郎さんを知ってるんですか」
大酉は先程からの老婦の口調に感じた疑問を訊いた。
「そりゃそうさ。私はあの人の妻だからね」
「え……」
言葉を失った。目の前の老婦は朝日奈陽一郎の妻、輝子だったのだ。まさかこんな風に朝日奈家の者と対面することになろうとは。
「まあいいさ。あの人に会いたいっていうなら、おいで」
「ちょ、ちょっと……」
どうしようか。こんなはずではなかったのだが。輝子は完全に勘違いをしているし。
「なんだい。早くおしよ!」
店のドアの鍵を開けながら輝子が怒鳴る。
こうなったら陽一郎の前ですべてを話すしかない。順番が何か変なことになったが、元々そのつもりだったのだ。
大酉は輝子が入った店のドアから、続けて中へと入った。
◆◆◆◆◆◆
「陽一郎さん。あなたにお客様ですよ」
輝子に通されたのは、店の奥にある階段を上に上がった部屋。どうやら店の二階を住居としているようだ。外観と同じく、どこか洋風な趣のある内装だ。
その居間に朝日奈 陽一郎はいた。
人の良さそうな丸い顔が微笑みながら大酉を見ている。
「……いつ……ですか?」
大酉は震える声で輝子に尋ねた。
「先週、四十九日を終えたばかりだよ」
居間の壁際、焦茶色の木製チェストの上に置かれた小さな仏壇。そこに陽一郎の写真が位牌と共にあった。その隣には、朝日奈 陽介一家の家族写真も飾られている。
「どうして……」
「脳溢血。夜布団に入って、朝になってもそのまま、ずっと起きて来なくてね」
遅すぎた。
大酉は愕然として仏壇の前に膝をついた。