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第三章・3

―3―


「二十六番、出ろ」


 その番号がここで大酉に与えられた名前だった。腰縄を付けられて取調室へ向かう。

 もう何度も行き来した廊下の、窓から差し込む日差しがやたらと眩しい。大酉は窓から顔を背けながら取調室に入った。

 

「ひどい顔だな」


 椅子に座った大酉を見て、牧本が言った。


「眠れなければ薬がもらえるはずだが」


 眠れなかった。

 眠りたくなかった。

 目を閉じればあの日の出来事が蘇る。鈴が死んだと聞かされてからはずっとだ。

 目の前に倒れている鈴が大酉のコートを掴む。それを振り解くと、鈴はゆらりと立ち上がり、折れているはずの足を引きずりながら大酉に近づいてくる。


『なんで助けてくれなかったの』


 鈴は血の涙の流れる目で、哀しそうに大酉を見ながら言う。

 耐え切れず逃げ出した大酉の足に傷だらけの腕が絡みつく。

 そんな悪夢を繰り返した。


「許してくれ……」


 両手で顔を覆いながら呟いた大酉に、牧本は机の上に身を乗り出すようにして腕を組む。


「今、なんて」

「俺が悪かった……」

「犯行を認めるのか」

「他は知らない。でもあの子に関しては……。あの子だけに関しては、確かに俺は見殺しにした。あの時、あの子はまだ生きていた。もしかしたら、すぐに助けを呼んでいれば……病院に運んでいれば、あの子は助かったかもしれない」


 大酉の口から漏れた言葉は後悔だが、自白ではない。大酉の後ろで息を詰めていた梶原に、牧本は小さく首を振った。梶原が悔しそうに奥歯を噛み締めているのが、牧本には見て取れた。


「どうしてこんなことに……俺はただ、写真を撮りに行っただけだったのに」


 それが大酉の仕事だったから。


「刑事さん。あんたは、なんで刑事になったんだ」

「うちは父が警察官だった。その父を見て育った」

「ああ……そうか」


 自分はまともに親を見たことなどあっただろうか。今、どうしているだろう。


「あなたは何でカメラマンに」

「……絵になるんだ。どんなもんでも。たとえ汚いものでも、くだらないものでも、写真にして切り取ると不思議とそれが魅力的なものに変わるんだ」


 まだ学生だった自分の撮ったそれらを、見た人達がいいじゃないかと言ってくれるのも心地良かった。


「ファインダーを隔てて見る世界はリアルでもどこか嘘っぽくて……。あの日も目の前で起きていることは現実だったのに、俺には映画かドラマのワンシーンみたいに見えたんだ。こんな考えだから、俺はいい写真が撮れなくなったのかもしれない」


 いつだって、現実とまともにぶつかりあうのが怖くて、いつの間にかファインダー越しの世界しか見れなくなっていた。


「……俺、カメラマンには向いてなかったのかもしれないな」


 弱く笑った大酉を、牧本は奇妙なものでも見るように眺めていた。






◆◆◆◆◆◆


 その日、いつものように取調室に入ると机の上にカメラがあるのが目に入り、大酉の心はざわついた。


「それ……は?」

「借り物です」


 言いながら、革の手袋をはめた手でカメラを取る牧本の手つきは、どう見ても不慣れで危なっかしい。思わず伸ばしたくなる手を、大酉は机の下で握り合わせた。

 報道系カメラマンの間でトップシェアを誇るメーカーのカメラに、二百ミリの大口径望遠ズームまでつけている。

 いったい何をする気なのだろう。


「犯行当時、犯人は手袋をしていたとされています。朝日奈家からは犯人のものと見られる指紋は見つかっていない。マンションのエレベーター、階段の手すり、朝日奈家のあった六階を中心に他の場所の指紋も、念入りに調べましたが、空き部屋も多いとはいえ集合住宅。どの指紋が誰のものか見分けることはできない……やはり難しいな」


 牧本はカメラを一度机に置き、手袋を外して再び手にした。フィルムを巻き上げる音がする。もうずっと聞いていなかった聞きなれたはずの音に、大酉は懐かしさを感じた。


「慣れていない人間には、このフィルムの交換というは意外とやっかいなものだな」


 カメラを見る大酉の視線に気づいてか、牧本はチラと大酉を見ながらカメラの裏蓋を開ける。パカという軽い音がして開いた裏蓋の中から、牧本はフィルムを取り出した。


「あなたのようなカメラマンでも、商売道具はもちろん大切にしてるんでしょう」


 いつもと違って意図の分からない牧本の質問に、大酉は当惑しながら頷いた。


「他人に自分のカメラを触らせたりしない」

「でしょうね。あなたの自宅にあった数台のカメラからは、あなた以外の指紋は検出されなかった。一台を除いて」

「一台を除いて?」

「あなた以外の指紋がついていたカメラが、一台だけ見つかりました。たった一台だけ、あなたのものじゃない指紋がついていた」


 牧本はフィルムを外したカメラの裏蓋を閉めた。


「我々は現場から犯人の痕跡を。犯人から現場の痕跡を探します。鈴君の握っていた釦からあなたのコートを。あなたの自宅のスニーカーから現場の花壇の土を、といった具合に。被害者と犯人の接点を見つけるんです」


 カメラを机に置いて、牧本は続けた。


「あなたの大切なカメラにあった指紋が誰の物か分かりません。しかし、ある場所から見つかった指紋と、あなたのカメラに残されていた指紋が一致しました」


 もし大酉が犯人ではなかったら。

 もし、犯人を撮ったというフィルムが存在したら。

 小さな疑問から調べなおした大酉の周辺から見つかった、誰のものか分からない指紋。

 犯人であろう大酉の持っていたカメラに、他人の指紋がついていても、気にする者などいなかっただろう。ましてや凶器でもないそれについた、被害者のものでもない指紋を事件に結び付けるなど。

 それでも牧本は適合する指紋を必死で探した。

 結果、今回の捜査で採取した指紋の一つと、それが一致することが分かった。


「朝日奈家のあるマンション六階、非常階段入り口のドアノブにあった指紋です」


 それが何を意味するのか。

 あのマンション六階で非常階段を使った人物が、大酉のカメラに触れたというのがどういうことなのか。

 大酉がポカンとしていると、牧本は悲痛な表情で口を開いた。


「なぜ……お前が犯人じゃないんだ」


 牧本の口からこぼれ出た言葉は大酉の無実を意味していたが、大酉はなぜか少しも嬉しくはなかった。自分が犯人ではないことが、むしろ悪いことのような気がした。

 もし自分が犯人なら、この事件はこれで終わるのに。

 大酉はうつむいた。


「本当に……なんででしょうね……」






 事件から一年が経とうとしていた。

 雲一つない乾燥した晴天の日。

 大酉は釈放された。

 

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