序章
序章
雨の日の外出というのは、大概、気の重いものである。
霞野署の新米刑事、常磐 要にとっても、それは例外ではない。
一昨日から降り続く雨は、履きつぶした革靴にじわりじわりと染み込んで、常磐の足を更に重くする。
ただ、常磐の気が重たいのは、雨のせいだけではなかった。
大通りから一歩裏に入った道の、昼間でも薄暗い急な階段を下りたところに常磐の目的地はある。
蜃気楼-kaiyagura-
不思議な名前が電飾のスタンド看板に書かれたこの店は、和菓子の美味い喫茶店。昭和初期の頃を感じさせる、古めかしい、よく言えばモダンな佇まい。
常磐は傘を畳むと、ドアの脇に置かれた少し錆びたスチールパイプの傘立てに入れた。
今入れた、常磐の傘の他に傘はない。
こんな雨の日は――。
思いながらドアを開けると思っていた通り、普段から客の少ない店内はガランとしていた。
静かな店内に鳴り響いたドアベルに、店の奥に居た店主がこちらを振り向き微笑んだ。
「やあ、こんにちは。常磐君」
「こんにちは、大酉さん」
和服姿に前掛けがこの店に良く似合う。
まだ四十ほどの歳のはずだが、すでに白髪の混じった髪は小さく後ろでまとめられ、丸メガネを掛けた顔は、いつも常磐を穏やかに迎えてくれる。
客のいない店内で、大酉 圭介は壁に掛けられた写真を取り替えていた。
奥の壁に三枚。花や風景を撮った写真が、はがきサイズほどの小さな木の額縁で飾られている。
「今日は鈴さんはいないよ」
大酉は壁から少し離れて、その傾きを確認しながら言った。
蜃気楼は和菓子とお茶のセットが美味いのだが、常磐の目的がたいてい、この店にいる朝日奈 鈴という人物にあるからだ。
「お休みですか」
眠り病という特殊な体質の鈴は、時と場所を選ばず眠りに落ちるため、店のドアに掛けられた看板が、『起床中』になっていないと会うことはできないという、少々やっかいな人物だ。
看板はたしか『就寝中』だった。
「ううん。今は灯ちゃんが寝てるから。ずっと二階にいるんだよ」
大酉が住居となっている二階をちらと見上げた。
灯というのは、ここに居候している女子高生で、彼女もまた人とは違う体質をしている。そのために時々、鈴の手を借りなければならないらしい。
「そうですか」
「だから、また出直して来てくれないかな。こんな雨の中悪いけど」
「あ、今日は朝日奈さんに会いに来たわけではないんです」
慌てて言った常磐に、大酉が珍しい物を見るように常磐を見た。常磐は落ち着かなくなって、目を逸らす。
「えっと、今日のおすすめは何ですか?」
つい、本当に訊きたいと思っていたことと違うことを、常磐は口にした。
「今日は麩饅頭」
「ふまんじゅう?」
「美味しいよ? つるっとした口あたりで瑞々しくて、もちもちと弾力があって……。このジメジメした季節には丁度いい」
説明しながら大酉は壁の写真の位置を直し、顎に手をやり首を傾げた。
「手伝いますよ」
常磐はまだ飾られていない写真を手に取った。
「いい写真ですね。大酉さんが撮ったんですか」
何気なく言った一言だったが、大酉が呼吸を止めたのが分かった。
しまった。こんな風に切り出すつもりはなかったのに。
「常磐君、今日は何の用なのかな」
穏やかだった大酉の声色に微妙な変化が感じられた。
「……今日は、大酉さんに伺いたいお話があって来ました」
意を決して常磐が大酉と向かい合うと、大酉は常磐の予想に反し、口元にかすかな笑みを浮かべた。
「そう。……いや、いったい、いつになったら訊きに来るんだろうと思っていたんだよ。君は鈴さんの事件を調べると言っていたのに、まったく捜査が進んでいないみたいだし」
鈴の事件というのは、十五年前に起きた『朝日奈一家惨殺事件』のことだ。鈴はその事件の唯一の生き残りである。十五年経った今も、犯人は捕まっていなかった。
大酉は配置のうまく決まらない写真をカウンターの上に載せ、茶を二人分入れて戻ってきた。店の中央のソファ席に座り茶をテーブルに置くと、一つを自分の口にゆっくり運ぶ。
腰を据えて……ということだろうか。
常磐は大酉の様子を探りながら、その正面に浅く腰を掛けた。窓の外で降り続ける雨の音だけが、やたらと大きく聞える。
「……それじゃあ、伺いますが」
「うん」
大酉は湯呑みを置いて常磐を見た。
「十五年前、私は鈴さんを殺したんだ」